《 誤読解説編 》

 このホームページについて、誤解をする人があまりにも多いので、誤解をほぐすための解説をしておこう。


 初めに


 まず、初めにお断りしておくが、このホームページをまともに読む人であれば、この「誤読解説編」を読む必要はない。なぜなら、誤読していなければ、誤読を正す必要はないからだ。正確に読んでいるのであれば、誤解をするはずもない。

 このホームページに対する誤読のほとんどは、「ろくに読まないで批判する」というタイプだ。書いてもいないことについて、書いてあるかのごとく誤読して、そして批判する。
 これに対しては、私は、一切弁解をしない。なぜなら、その批判は、私の主張に対する批判ではなくて、「架空の私」に対する批判だからだ。見当違いをした「私の虚像」に対して、誰かが批判したからといって、いちいち弁解はしない。勝手に誤解していればいい、と思う。

 こういう誤解をする人は、必ず、次のことを主張する。
 「区体論は、トンデモだ」
 こういう「トンデモ」という用語を使って、汚い悪口を言う時点で、その人には科学者たる資格がない、と言ってよい。
 仮に誰かが間違った意見を言ったなら、冷静に「それはここが間違っている」と、数式で指摘すればいいだけだ。数式で指摘するかわりに、「トンデモ」という悪口の言葉で罵倒する。かくも感情的になって、頭に湯気を昇らせている時点で、その人の言葉は、数学者としては一切信頼がおけなくなる。
 こういう人物を、私は相手にしない。その旨、はっきりとお断りしておこう。
 なお、こういう人物は、「トンデモ」という言葉を使えば使うほど、自分がみじめに見える、ということを、自覚してほしいものだ。「数式を使えない数学者」ほど、哀れなものはない。





 誤解1


 誤解を具体的に指摘しよう。そのうちの最大のものは、こうだ。
 「区体論は集合論を否定している」
 ここから、「区体論は既存の数学を否定するトンデモだ」という結論が出る。

 しかし、区体論は、集合論を否定していない。ここを根本的に勘違いしている人が多すぎる。
 区体論が主張しているのは、次のことだ。
 「集合論とは別の公理系を構築する」

 したがって、これを否定するとしたら、次の二通りでしかない。
 「区体論の理論は、公理系ではない」(体系に矛盾がある)
 「区体論の理論は、集合論とほぼ等価ではない」

 このいずれかを厳密に指摘する意見があれば、私は潔く、シャッポを脱ごう。
 しかしながら、たいていの批判は、そのどれでもない。先の通りだ。つまり、「区体論は集合論を否定しているから、トンデモだ」
 まったく、話にならない。繰り返すが、区体論は、集合論を否定しているのではない。両者は兄弟のようなものだ。集合論が兄であり、区体論は弟だ。弟の方は、「弟は兄とは違う」と主張しているだけだ。
 ところが、兄の信者は、「弟は兄を否定しているから、弟はトンデモだ」と主張する。弟は、兄を否定しているのではなくて、単に「兄とは違う」と主張しているだけなのだが、「兄とは違うというのは、兄を否定していることだ」と勘違いする。

 このような論理的な倒錯をする人は、そもそも、数学者たる資格がない、と言える。論理があまりにも粗雑だからだ。


誤解2


 別の誤解もある。
 「区体論は、集合論の難点を指摘している。しかし区体論の指摘する点は、別に難点と言うようなことではない。集合論には、まったく問題はない」

 このような人は、数学基礎論の知識がまったく欠落している。さっさと数学の歴史の本を読み直した方がいい。
 「集合論には問題がある」
 と指摘しているのは、私ではない。集合論の歴史上における、多くの人々だ。カントールや、ゲーデルや、ラッセルや、ノイマンなど。私が「集合論の難点」と主張した点は、私の主張ではなくて、カントールや、ゲーデルや、ラッセルや、ノイマンなどの主張だ。私はそれらの主張を、単に紹介しただけにすぎない。

 これらは、数学の世界の常識だ、ということは、ホームページの最初の方にも書いておいたとおりだ。これらの指摘は、他の人の指摘であるから、私が「自分の指摘だ」というふうに、他人の成果を横取りするようなことはしない。
 もちろん、「私の独自の主張だ」とも言わない。こんなことは、数学基礎論の世界では、当り前だからだ。
 こういう当り前のことも知らないで、「区体論は集合論を否定している」などと主張する人は、まずは、教科書を読むべきなのだ。

 どんな理論体系であれ、その理論体系の内部では、いくつもの問題が現れる。その問題を解決する途上で、学問は進歩する。だから、多くの先端的な学者が、問題点を次々と指摘してきた。カントールや、ゲーデルや、ラッセルや、ノイマンなども、いろいろと問題点を指摘してきた。それは20世紀前半のことだ。……私はそれを引用しただけにすぎない。
 先人たちは、理論を進歩させようとして、次々と問題点を探り出した。そういう問題点を無視して、「集合論は完成された矛盾のない学問だ」と主張するのは、あまりにも初心者的だ。小学生を相手に、「集合論は完成された矛盾のない学問だ」と主張するのはいいが、大学院生を相手に、「集合論は完成された矛盾のない学問だ」と主張するのはおかしい。

 どんな学問であれ、学問のフロンティアの領域には、問題がある。その問題を無視して、安全な領域だけを研究したければ、大学には入らずに、小学校で学んでいればいいのだ。

 ともあれ、「区体論は、集合論の難点を指摘している」というのは、間違いだ。それを指摘しているのは、集合論の研究者である。カントールや、ゲーデルや、ラッセルや、ノイマンなどである。

 ※ 特に大きな問題点が、「正則性の公理」だ。この公理にひそむ問題点を理解できない人々が、「区体論は何を問題にしているの?」と疑問に思う。
 そういう人には、「集合論の本を読め」と言っておこう。ブルーバックスの竹内外史の本を読むといい。(121頁)
 この本を読めば、集合論の世界にはいろいろと未解決の問題がある、とわかる。



誤解3


 別の誤解もある。
 「区体論は、現代数学の全体を扱うことはできない。ゆえに、無意味だ」

 これもまた、論理の倒錯である。仮に、この主張が正しいとすれば、次の主張も正しくなる。
 「群論は、現代数学の全体を扱うことはできない。ゆえに、群論は無意味だ」
 「無限小解析は、現代数学の全体を扱うことはできない。ゆえに、無限小解析は無意味だ」
 こういう理屈がメチャクチャなのは、わかるだろう。群論や、無限小解析は、現代数学の全体を扱うことはできないが、それでも、一つの数学理論として有益である。
 そして、区体論もまた、同様に扱われるのだ。一つの公理系(公理空間)として。

 前述の誤解は、次のことを元にしている。
 「区体論は、集合論に取って代わる体系だ。ゆえに、集合論と同じ位置づけになる。つまり、すべての数学の基礎となる。ゆえに、すべての数学を基礎づけねばならない」
 こう思う人が、多すぎる。しかし、よく考えればわかるとおり、ここには相当の論理の飛躍がある。こんな主張は、あまりにも非論理的だ。

 はっきり言っておこう。正しくは、こうだ。
 「区体論は、集合論に並ぶ体系だ。しかし、集合論と同じ位置づけにならない。すべての数学の基礎となる可能性はあるが、そのことはまだ証明されていない。できるかもしれないが、できないかもしれない。今はまだ検証の途上である」

 ここで、「検証の途上である」ということは、「真偽が不明だ」ということだ。ところが、「真だと証明されていないから、偽である」と主張するのが、多くの誤解だ。(あまりにも非論理的だ。)

 多くの数学者の直感は、こうだ。
 「区体論の方法では、測度などをうまく扱えない」
 これは、ある程度、真実である。なぜなら、よく読めばわかるとおり、区体論では次のことを主張しているからだ。
 「区体論の方法では、無限小を扱う。その際、開区間や閉区間については、集合論とはまったく異なる方法を用いる」

 区体論では、集合論とはまったく異なる方法を用いる。とすれば、集合論の方法を前提とする限り、うまく扱えないのは当然だ。とすると、結論は、こうだ。
 「区体論では、数学を扱うとき、集合論とはまったく異なる方法を用いるべきだ」
 ところが、多くの人は、こう誤解する。
 「区体論では、数学を扱う方法がない」
 その上で、こう結論した上で、証明もしていないのに、それを真実と見なして、声高に主張する。この態度は、数学的というのとは正反対である。

 たとえて言おう。
 「虚数を算術的に扱うときには、実数を算術的に扱うときの方法は、使えない」
 これは事実だ。ここから得られる結論は、こうだ。
 「虚数を算術的に扱うときには、実数を算術的に扱うときの方とは、別の方法を使うべきだ」
 ところが、勘違いする人は、こう主張する。
 「虚数を算術的に扱うときには、実数を算術的に扱うときの方法は、使えない。ゆえに、虚数を算術的に扱うことは、絶対に不可能である」
 勝手にこう主張する。証明もしないで。……これと同じ勘違いを、多くの人々がやらかしている。


誤解4


 別の誤解もある。
 「区体論は、集合論とは違う体系である。無矛盾かつモデルのある公理系である。それは認めよう。しかし、違う公理系なんて、そもそも無意味だ」

 こう主張する自称専門家もいる。しかし、これがそうなら、数学の発展は停止してしまう。
 なぜか? 数学とはすべて、「仮定された公理系の上に成り立つ数学空間」であるからだ。新たな公理系の提出をやめたら、その瞬間に、数学の世界は停滞してしまうのだ。

 物理学で言えば、ニュートンの法則や、相対論の原理や、量子力学の基礎方程式がある。物理学はこれらの新しい法則・原理を前提として、新しい理論体系を構築していった。
 とすれば、数学の世界でも、新しい公理系と新しい数学空間は、有益なのである。そして、そのために必要な条件は、「役立つこと」ではなくて、「無矛盾であること」、ただそれだけなのだ。
 ここが、数学という分野での、根本的な価値観だ。これさえも理解できないで、「区体論は役立たずだ」などと主張する人は、さっさと数学の外の世界に出た方がいい。


狙い


 最後に、区体論の狙いを、示しておこう。さんざん誤解されたので、誤解されないように、狙いを示しておく。

 まず、区体論の狙いは、次のことではない。
 「集合論を否定する」
 前にも繰り返したように、区体論と集合論は、並んで存在する別の体系だ。ある現象には区体論がうまく適用され、ある現象には集合論がうまく適用される。また、ある現象には区体論も集合論も同じように適用される。……ケースバイケースである。どちらかが正しいとか間違っているとか、そういう問題ではない。単に、兄弟のように、異なるだけだ。(似て非なるだけだ。)

 また、区体論の狙いは、次のことではない。
 「集合論に取って代わるような、完璧な公理空間を構築する」
 このこととは、最終的な目標になるかもしれないが、とりあえずは、目標とはならない。遠い先の話であり、今現在の話題とはならない。話題とはならないことを論じても、無意味である。
 この件に関しては、現段階の区体論は、何も主張していない。
 ( ※ ついでだが、「区体論は、集合論に取って代わる完璧な公理空間を構築できない」と主張するのであれば、そのことを厳密に証明する必要がある。……まず無理でしょうけどね。なぜなら、真を証明することはできても、偽を証明することはできないから。)

 区体論の狙いは、次のことである。
 「素朴集合論に相当する公理系を構築すること」
 これが最大にして唯一の狙いだ。

 さらに、このことができたことを前提とした上で、次のことに話を進める。
 「無限小解析を公理的に構築する」
 無限小解析は、集合論では構築できない。かわりに、「集合論 プラス モデル理論」という形で、構築しているだけだ。これは、かなり、うさんくさい方法である。少なくとも「公理的方法」という数学の方法に頼ってはいない。
 そこで、「公理的方法」によって「無限小解析を公理的に構築する」というのが、区体論の当面の狙いとなる。……このことまでは、おおまかに、道筋をつけておいた。(厳密に証明したわけではないが。)
 ※ ただし、その先は、未解決。研究途上。


 結語


 まとめてみよう。たとえて言えば、こうだ。
 「人々がAという山に登っている。しかし私は、Bという山をめざす。そのうち、五合目までは、およそメドを付けた」

 これに対して、批判者は、次のように批判する。
 「Aという山が唯一無二なのだから、Bという山をめざすのはけしからん」
 「Aという山が存在するのだから、Bという山は存在しない」
 「Bという山を認めることは、Aという山を否定することだ」
 「Bという山に登ることは、まったく意味がない。Aという山だけがあればいい」
 「Bという山を登るには、Aという山を登るのと同じ山道をたどっても、山頂には達せない。ゆえに、Bという山の山頂に達することは、絶対に不可能だ」

 こういう批判が多い。彼らは、Aという山だけを認めて、他の山を一切認めようとしないのだ。そもそも、Aという山を征服したときも、先人たちが新たな山に登ろうとして努力したのだ、という歴史を忘れて、新たな山に登ることを、全面的に否定するのだ。
 「Aという山は正しい。ゆえにBという山は間違っている」
 と。

 しかし、このような主張は、数学的な態度とは、あまりにも懸け離れている。なぜなら、それは、学問の進歩や拡張を否定する態度だからだ。
 というわけで、私は、数学的ではない主張には、いちいち反論しないことにしている。私の主張を「トンデモだ」と主張したい人は、いくらでも主張すればいい、と思う。見苦しい悪口を言えば言うほど、それを語る当人の信頼度が暴露されるからだ。いちいち私が批判するまでもない。

 なお、本気で区体論に反駁したい人は、前述の二点を指摘すればいい。
 「区体論の公理系には、矛盾がある」
 「区体論の公理系からは、素朴集合論と等価の結論を引き出せない」
 このようなことを主張できた人がいるなら、私は謙虚に耳を傾けよう。

 [ 付記 ]
 私と同じようなことをした数学基礎論の学者は、たくさんいる。
 たとえば、論理学の公理系だけでも、「ラッセルの公理系」などのほか、たくさんの公理系がある。
 数学基礎論の公理系だけでも、「ツェルメロ」系や、「ツェルメロ・フレンケル」系や、「ベルナイス・ゲーデル」系など、いくつかの公理系がある。また、「正則性公理の有無」や、「選択公理の有無」などをめぐっても、いくつかの公理系がある。また、超限順序数をめぐっても、いくつかの体系がある。
 数学基礎論の公理系には、いろいろな公理系があるのだ。これらに対して、「たくさんの公理系を考えるなんて無意味だ」と批判するのは、単に、自己の無知をさらけ出しているだけだ。

 数学というのは、新しい公理系を演繹的に展開する学問なのである。新しい公理系を否定している人は、数学そのものを否定していることになる。……このようなエセ数学者については、私は相手にしないことにしている。あしからず。
 文句を言いたい人は、ネットの上で、「区体論の著者はトンデモだ、馬鹿だ、阿呆だ、デタラメだ」とわめきたてるといいでしょう。そういう悪口をがなりたてる人は、たくさんいます。
( ※ ただし、静かな態度で、数式を使って理知的に指摘する人は、一人もいません。)




  【 追記 】
 多くの人が引用している誤解サイトがあるので、ついでに一つだけ、紹介しておこう。
  「マチガッテル系の人々」( http://taurus.ics.nara-wu.ac.jp/machigatteru/

 ここの著者は、私が何度指摘しても、勝手に誤読して、私の主張を「マチガッテル系」に分類したがっている。ひどい誤読であるし、あまりにも初歩的なミスなので、いちいち紹介しないできた。だが、勘違いする人が多すぎるので、今回、紹介しておこう。

 まず、私は次のように書いた。
 「だから、専門家が「集合論」と呼んでいるものと、一般の人々が「集合論」と呼んでいるものと、この二つのうち、少なくともどちらか一方は間違っているわけだ。もし専門家が「集合論」と呼んでいるものが正しいとすれば、われわれが学校で教わる集合論は間違っていることになる。」(§1−1)

 これを区体論の主張だと見なして、私の主張を「マチガッテル系」に分類したがっている。しかし、ここには、数学の初歩的なミスがある。
 上記の説(§1−1)は、区体論の主張ではない。今日の数学の世界では、ただの常識である。そのことを解説しておこう。

  ・ 公理的集合論 …… 空集合から構成されたものだけが、「集合」の要素となる。
  ・ 素朴集合論  …… 現実の物(リンゴなど)などは、すべて「集合」の要素となる。

 この違いがある。この違いは、すでに区体論のページで紹介したとおりだ。そして、「紹介した」というわけは、このことは、公理的集合論のどの本にも書いてあることだからだ。

 その根拠を「正則性公理」という。「正則性公理」は、次のことを主張する。
 「公理的集合論の世界で『集合』と見なされるのは、空集合から一定の手続きで構成されたものだけに限られる」
 たとえば、空集合を 0 と書くと、{ 0,{0}}のようなものだけが集合と見なされる。これに対して、よそから a というものを持ち込んで、これを公理的集合論の世界に入れることは、禁じられる。もちろん、リンゴやミカンなどを集合の要素として扱うことも、禁じられる。

 これが「公理的集合論」というものだ。現代数学は、この「公理的集合論」をもとに構築されているのであって、(リンゴやミカンを扱う)「素朴集合論」をもとにして構築されているのではない。
 「公理的集合論」は、「素朴集合論」を公理によって形式化したものだが、そのとき同時に、集合と呼ばれるものの範囲を「空集合から構成されるもの」だけに限定しているのだ。つまり、リンゴやミカンを、公理的集合論から排除しているのだ。
 こんなことは、集合論の世界では、イロハである。そのイロハも知らない人が、「公理的集合論と素朴集合論はたがいに矛盾する、と区体論は主張している」と解説する。とんでもない勘違いだ。(このサイトそのものが、一種のトンデモに相当するかもしれない。あまり言いたくないですけどね。)

 はっきり区別しよう。そのことを主張しているのは、区体論ではなくて、公理的集合論である。区体論のページで紹介したのは、区体論の主張ではなくて、公理的集合論の主張なのだ。
 だから、上記のサイトが「南堂はこう主張している」と記している話は、まったくの嘘八百である。正しくは、「ノイマンはこう主張している」だ。なぜなら、正則性公理を導入して、公理的集合論の対象範囲を限定したのは、ノイマンであるからだ。
( ※ ネットでも検索できる。「ノイマン 正則性公理」で検索するといい。)
( ※ 正則性公理の意味については、「正則性公理 空集合」で検索するといい。)

 ともあれ、このような基礎中の基礎(イロハのイ)も知らない人が、ノイマンの主張を取り上げて、「これは南堂の主張であるから、南堂はトンデモだ」というふうに解説しているわけだ。

 重ねて言う。「素朴集合論と公理的集合論は両立しない」と主張しているのは、私ではなく、ノイマンだ。ノイマンの主張を、南堂の主張であると解説してくれるのは、身に余る光栄だが、その誤解された光栄は、返上しよう。
 「自分はノイマンよりもずっと頭がいい」と思い込んでいるだけ人々が、上記のサイトを真似て、誤解にもとづきながら、「南堂の説(実はノイマンの説)はトンデモだ」と主張すればいいのだ。



( ※ ここで記したのは、「正則性公理」の意味である。これは、公理的集合論では、イロハのイである。だから、ブルーバックスのような初歩的な本にすら、説明してある。高校生でも知っている人は多い。大学の教養課程なら、当然知っていていい話だ。……なのに、この程度の初歩的なことも知らないで、勝手に誤読して、あげく、「正則性公理は南堂が主張した」という意味のことを解説する。せめて、ブルーバックスぐらいは、読んでほしいものだが。)
( ※ 本当に数学科の人であれば、数学基礎論の公理系にはたくさんの公理系がある、ということに気づくだろう。その公理系をいろいろと研究するといい。「新しい公理系を出すのは無意味だ」「先人の業績はすべて無効だ」なんて主張する前に、教科書ぐらいは読んでほしいものだ。)
( ※ 一般に、基礎知識のない人々ほど、「マチガッテル系」とか「トンデモ」という言葉を使って、自分の無理解さをさらけ出すのである。……具体的に論理的に数式で批判する能力のない人々が、個別の指摘をするかわりに、「マチガッテル系」「トンデモ」という一語で感情的に非難するのだ。……悪口ばかりを言う貴乃花にそっくり。本当なら、相手にするべきではないのだが、私はここではみっともなくも、貴乃花のような人々を相手にしてしまった。恥ずかしい。反省します。……悪口を言うことしか能のない低級な人々を扱うような、下品な駄文を読ませてしまって、申し訳ありません。深くお詫びします。)



 なお、おせっかいになるが、先のサイトの人に勧告しておこう。「マチガッテル系」という分類には、「区体論は間違っている」と述べる人々を、収録するべきだ。なぜなら、彼らはまさしく、そこに収録されるに値するメチャクチャな批判を述べているからだ。通常、次の3タイプだ。
  1. 「区体論は、『集合論は間違っている』と主張している」という批判。(前出の誤解1)
  2. 「区体論は数学の理論として間違っている」という批判。この批判が問題なのは、意味が不明だからだ。「区体論は数学的に矛盾している」「区体論は数学を構築できない」「区体論は現実に適合していない」のどれであるとも明示せず、また、どの一つであることをも論証しない。単に「間違っている」という、意味不明な言葉を述べるだけだ。
  3. 本当は、「区体論は何となくおかしいと感じる」というふうに、直感的に漠然と感じているだけだ。なのに、「区体論は間違っている」と論理命題で断言する。証明したわけでもないことを、さも証明された定理であるかのごとく、即断する。
 いずれにしても、メチャクチャである。こういう連中は、何も数式で証明しないまま、「フェルマーの定理を証明した」とか、「ヒルベルトの提起した大問題を解決した」とか、とんでもないホラを吹聴するのだろう。何しろ、数式を使わないで、直感だけで証明を片付けたつもりになって、断言するんだから。
 こういうメチャクチャな「自称数学者」が、あまりにも多すぎる。そういう連中こそ、「マチガッテル」系に収録するべきだ。そして、その筆頭に上がるのは、「マチガッテル」系というサイトを運営している当人、その人であろう。何しろ、集合論のイロハのイも知らないで、数式の一つも使わずに、区体論を「マチガッテル」というふうに主張しているのだから。自分自身が、最大の「マチガッテル」系なのだ。
 そう言われて、もし本人が悔しがるのであれば、区体論の公理系について、「無矛盾な体系」か、「無矛盾でない体系」か、どちらかを判定してみるがいい。どちらの判定でもいいから、自分で判定を下してみるがいい。……ただし、それには、数式(論理式)を必要とする。それはちょっと、ご本人には無理でしょうけどね。
 繰り返す。数学者というものは、数式で真偽を語るべきだ。「トンデモ」というような悪口で非難を語る連中には、数学者たる資格はないのだ。
( ※ 蛇足で言えば、この「誤読解説編」も、数学の話ではない。だから最初に、この点に関して、注意を喚起しておいた。この「誤読解説編」は、数学者に向けた話ではなくて、エセ数学者に向けた話だ。まともな数学者は、この「誤読解説編」を読む必要はない。なぜなら、真の数学者ならば、いちいち悪口なんかを言わず、真偽だけを数式で語るからだ。)



 【 オマケ 】
 オマケとして、裏話を示しておこう。特に読む必要はないが。
 誤解4では、「区体論では測度をうまく扱えない」という誤解を示した。こういう誤解をした人は、非常に頭がいい、と言える。なぜなら、ここでは、とても高度な誤解をしているからだ。それはとうてい素人ではできないような高度な誤解だ。
 ただし、高度であろうとなかろうと、誤解は誤解である。
 その理由は? それは、ここではとうてい書き尽くせないが、要するに、「物事の表面だけを見て、物事の核心を見ない」ということにある。表面的な不整合に目を奪われ、奥にある高度な調和を見通せない。海の波ばかりに目を奪われ、海の底を見通せない。奥にある高度な調和を見抜くには、簡単な論理演算を超えた数学的なヒラメキが必要だが、それは、簡単にはつかめないものだからだ。
 上記のような誤解をする人は、きっと、「数学の秀才」と呼ばれていたはずだ。その一方で、「数学の天才」と呼ばれることはなかったろうし、「複雑な問題を、ごく簡単にエレガントに解く」ということにも、ほとんど興味をもたなかったはずだ。「正確さ」を重視し、「論理式の組み合わせ」だけを重視し、「自分でも良くわからないヒラメキが天啓のように湧き出てくる」ということは体験したことがなかったはずだ。
 「区体論で測度を扱う」には、集合論の発想を超えた、根本的に異なる発想が必要となる。その発想は、まだ数学的に定式化されていないので、ここでは記さない。ただし、簡単に暗示しておけば、「デデキントの切断をひっくりかえす」と言える。
 「区体論で測度を扱うことはできない」ということはない。ただし、「従来の方法では、区体論で測度を扱うことはできない」と言える。その意味で、上記のような誤解をした人は、とても高度な誤解をしている、と言える。その中途半端な知性を、大いに称賛しておこう。そういう人たちはきっと、どんなにすばらしい理論を見ても、たちどころに難点を見出して、「これは駄目だ」とつぶすことができるはずだ。相対論でも量子力学でも、たちどころにつぶすことができるはずだ。……誤解ゆえに。

( ※ なお、まともな数学者ならば、どう判断するか? 「測度を扱えそうにない」と否定する前に、「測度以外のことなら扱えそうだ。これはなかなか興味深い理論だ」と関心を掻き立てられるだろう。……つまり、AとBという二つの似て非なる体系があったとき、「AにあるところがBにはない」と騒ぐよりは、「ほとんどの部分で共通する」ということに着目するべきだろう。その上で、「ある部分では、AにあるところがBにはない。しかし、ある部分では、BにあるところがAにはない」と判断して、両者の違いを調べるだろう。「ないところだけを見る」というような非科学的な判断はしないはずだ。)
( ※ たとえて言おう。男と女は、似て非なる。そこで、「女は男にあるものをもたないいから、女は男に比べて、欠陥人間である」と見なす人もいる。一方、「女と男は、それぞれ異なる。女も男も、それぞれ、相手にないものをもつ」というふうに認識する人もいる。……どちらの態度が科学的な態度であるか、よく考えてみよう。)

 【 オマケのオマケ 】
 それにしても、上記のような誤解をする人は、数学的センスがない、と思える。なぜか? 仮に、そのような誤解が正しいとすれば、かえって話が興味深くなるからだ。
 「測度については、集合論では扱えるが、区体論では扱えない」
 というのが、上記の人々の説だ。これは誤解だが、仮に、これが誤解でなくて正しいとしよう。とすれば、そこには、数学的に非常に興味深い話題が横たわっていることになる。
 例を示そう。
 「陽子や電子については、古典力学では扱えず、量子力学でのみ扱える」
 「光速度に近い速度については、古典力学では扱えず、相対論でのみ扱える」
 この二つの例では、多くの場合には二つの説で一致するが、限界的な場合では二つの説が食い違う。そして、その食い違いを見ることで、両者の本質的な違いが見えてくる。
 この食い違いがあるとき、次のような立場を取ることもできる。
 「陽子や電子については、古典力学では扱えないから、古典力学は間違いだ」
 「光速度に近い速度については、古典力学では扱えないから、古典力学は間違いだ」
 こういう単純な発想を取って、「古典力学を捨ててしまえば話は解決する」と思い込むのは、よほどの単細胞だろう。この伝でいえば、次のようになる。
 「天体の動きとか、弾丸の動きのように、古典力学で完璧に計算できる場合にすら、量子力学や相対論で、七面倒くさい計算をする必要がある」
 さらに、こうなる。
 「相対性理論はミクロの領域では成立しないから、不完全な理論である。ゆえに、相対性理論を捨ててしまうべきだ」
 「量子力学は、無限大の発散の問題を根源的に解決できていないので、不完全な理論である。ゆえに、量子力学を捨ててしまうべきだ」
 要するに、どこかの限界的な領域で若干の食い違いがあったとき、二つの立場に分かれる。
 「食い違いがあるから、興味深い」
 「食い違いがあるから、すべて捨ててしまえ」
 前者の人々は、センスがあるし、後者の人々は、センスがない。私はそう思う。……とはいえ、センスがあるかないかは、しょせん、センスのない人には馬の耳に念仏であろう。彼らがせめて、「自分はセンスがない」と自覚するだけのセンスがあればいいのだが、やはり、馬の耳に念仏であろう。つまり、言うだけ無駄。
 というわけで、この話は、ただの「オマケのオマケ」にすぎない。





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