補足解説編


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序説
  前口上
  基本
集合論との関係について
  集合論との関係
  区体論への批判
  二つの集合論
  正則性の公理の意味
仮表示形と正表示形
  二つの体系
  両者の相違点
仮表示形という体系
  濃度の公理
  形式化の方法
仮表示形の位置づけ
  ブール代数との類似
  ブール代数との違い

目 次





















  基本的性質
まとめ
  二通りの評価
  世界観の違い
  公理8と公理9
  正表示形
付録
  素朴集合論と公理的集合論
  正則性公理
  KPU
  評価
  本質
  付言
  補足
  追記
  まとめ
  オマケ
    



序説



前口上


 この文書では、区体論について、補足的な解説をする。というのは、既存の話だけでは、説明不足なところがあり、誤解を招きやすいからだ。
 そもそも、すでに公開した部分は、読者として、次のいずれかを想定している。
  ・ 素人  (数学基礎論の知識がないので、読んだことを素直に信じる。)
  ・ 専門家 (数学基礎論の知識が十分にあるので、いちいち説明されなくてもいい。)

 ところが、この両者の中間に位置する人々もいる。すなわち、
  ・ 半玄人 (数学基礎論の知識が少しだけあり、理解できる範囲だけ理解する。)

 こういう人々が問題だ。彼らは、十分な知識はないが、不十分な知識ならある。理解できた分については理解できるが、理解できなかった部分については「理解できない」と考えずに、「相手の主張が間違っている」と考える。
 これらの人は、ゼロから考えるのでもなく、何もかも知っているわけでもなく、既存の中途半端な理解を、おのれのよりどころとする。そして、その中途半端な理解から見た解釈を、絶対視する。当然、誤解だらけになる。
 たとえて言えば、正の数だけを学んだ小学生が、「負の数を考えるなんてトンデモだ」と批判するようなものだ。「正の数だけがある」という前提を取ると、「負の数がある」という説は矛盾するから、「その説は間違っている」と結論する。つまり、あくまで自分の理解できる範囲でしか物事を理解しない。そのせいで、自分の理解できない範囲については、「トンデモだ」と非難する。

 そこで、この文書では、そういう半玄人の人々のために、説明を加えよう。彼らがどこをどう勘違いしているかについて、説明する。


基本


 以下の説明を読む前に、話の原則として、次の二点を理解しておいてほしい。これは最低限の理解である。これさえも理解できないようでは、「半玄人」の資格さえない。数学について考えるのをやめた方がいい。

 (1) モデルの存在
 区体論の公理系(特に仮表示形)については、その公理系を満たすモデルが存在する。つまり、「点が一つだけある」という空間だ。ここで、点を「アトム」と見なすと、このモデルは、区体論の公理をすべて満たす。
 モデルの存在する公理系は、数学の理論となる。つまり、「矛盾のある理論」ではない。役に立つかどうかはともかくとして、ちゃんとした理論であるということを理解しよう。

 (2) ブール代数との比較
 上の (1) のことは誰でもわかる。そこで、これについて批判するのを諦めて、
 「区体論は役立たずだ」
 と批判する人もいる。ここには、二つの難点がある。

 第1に、有益かどうかは、理論の正誤とは、何の関係もない。仮に無意味だと思うのであれば、無視すればいいだけだ。どうせ役にも立たない理論だから、放っておけばいい。いちいち「トンデモだ」などと非難する必要はない。

 第2に、有益かどうかということであれば、ブール代数と比較するといい。区体論の体系は、ブール代数の体系に、非常によく似ている。実を言うと、次のことがほぼ成立する。(証明済み。)
 「区体論の公理系は、ブール代数の公理系に、公理8を加えたものである」
 要するに、この二つの公理系は、大部分が共通する。ただ一つ、公理8だけが異なる。そして、区体論には公理8があるが、ブール代数には公理8がない。(公理8がなくて、そのかわりに、別のものがあるわけでもない。)
 つまり、区体論は、ブール代数よりも少しだけ「強い」公理系であるわけだ。とすれば、「区体論は有益でないから無意味だ」と批判することは、「区体論よりももっと弱いブール代数は、もっと無意味だ」と批判することになる。しかし、ブール代数というのは、これはこれで、確固たる位置を占めている。これを「捨ててしまえ」なんていうのは、暴論である。

 以上で、(1)(2) のことを示した。つまり、こうだ。
 「区体論は、数学の体系である」
 「区体論は、ブール代数と同等以上の役割がある」
 この二点を、はっきりと理解してほしい。つまり、「区体論は考察の価値がある。少なくともブール代数程度には」ということだ。これを理解するべきだ。

 一方、半玄人の人々は、こう批判する。
 「区体論の体系は、集合論の体系よりもずっと弱い。ゆえに、集合論に比べて、無意味である」
 この批判は、前半(集合論の体系よりもずっと弱い)は正しいが、後半(無意味である)は正しくない。そのことは、(2) からわかるだろう。この批判は、見当違いであるのだ。なぜか? 彼らの勘違いの前提は、次のことにある。
 「区体論は集合論と等価である体系であるはずだが、そうはなっていない」
 これは、根本的な勘違いだ。ここで、はっきりと強調しておくが、正しくは、次のようになる。
 「区体論は集合論と等価である体系ではない」
 区体論の位置づけは、「集合論に代替するべき体系」ではない。ごくおおざっぱに言えば、そう言ってもいいのだが、正確に言えば、両者の位置づけはかなり異なる。
 では、位置づけは、どう異なるか? それは、かなり面倒になるので、この文書では説明せずに、「発展編」の方の文書で説明する。ともあれ、ここでは、次のことを理解しておいてほしい。
 「区体論の位置づけは、集合論の位置づけとは、いくらか異なる」
 「区体論の公理系は、ZFの公理系に代替するものではない」
 「区体論と集合論とは、別の理論体系である」
 「区体論に最もよく似ているのは、集合論ではなく、ブール代数である」
 
 簡単に言えば、こうだ。
 「区体論は集合論に比べて駄目だ」
 というような批判は、
 「ブール代数は集合論に比べて駄目だ」
 というような批判と同様に、まったく見当違いなのだ。
 ブール代数は、それ自体、独立した一つの理論体系である。集合論を否定も肯定もしない。
 区体論も、同様である。区体論は、それ自体、独立した一つの理論体系である。集合論を否定も肯定もしない。……このことを、はっきりと理解しておいてほしい。


 ( ※ 「区体論では何ができるか?」という件については、最後の追記で説明した。)


集合論との関係について


 多くの半玄人は、区体論と集合論を比較して、「集合論は正しいから、区体論はトンデモだ」というふうに話を進める。実際には、区体論と集合論は、直接の関係はないのだが。そこで、誤解をほぐすために、詳しく説明しておく。


集合論との関係


 Part1〜Part2では、次のような意味のことを述べた。
 「集合論には、問題がある。そこでかわりに、区体論を提出する」
 これを読んで、次のように解釈する人々が出た。
 「区体論は集合論を否定している。区体論は、正しい数学を否定している。ゆえに区体論はトンデモだ」
 これはまったくの誤解である。そのことを指摘しよう。
 
 そもそも、区体論は、集合論との関係については、こう主張しているだけだ。
 「区体論は、集合論とは異なる体系である」(異なる公理系をもつ)
 それだけのことである。つまり、集合論については、特に何事も主張していない。なお、「ラッセルのパラドックス」などの問題を例示して、「このような問題が区体論では原理的に発生しない」ということは説明した。とはいえ、ここでは、問題の回避が示されているだけであり、集合論そのものを否定しているわけではない。

 それでも、Part1〜Part2では、集合論について何かを主張しているように見える。しかしそれは、集合論についての主張ではあっても、区体論による主張ではない。
 実は、それらは、集合論の世界における主張である。それを引用しただけだ。具体的に言えば、集合論については、集合についてのノイマンの主張を引用しただけである。
 繰り返すが、区体論が主張しているのは、ただ一つ、次のことだけだ。
 「区体論は、集合論とは異なる体系である」(異なる公理系をもつ)
 つまり区体論は、集合論については、何も主張していない。
 考えてみれば、これは、当り前のことである。どんな公理系であれ、その公理系は、その公理系自体のことを語るだけだ。他の公理系のことには、何も言及しない。
 たとえば、ユークリッド幾何学の公理系は、ユークリッド空間について語るだけであり、群の空間や確率の空間については何も言及しない。それと同様だ。区体論は、区体論について語るだけであり、集合論については何も言及しない。(せいぜい、同じ問題を扱って、別の回答を出すだけだ。)


区体論への批判


 Part1〜Part2では、集合論について何事かを語っている。ここで、注意してほしい。ここで語っているのは、区体論が語っているのではなくて、集合論が語っているのだ。
 さらにまた、注意してほしい。ここで「集合論」と呼ばれるものについては、「素朴集合論」と「公理的集合論」との双方があるのだから、この双方を混同してはならない。
 こう理解した上で、次のような批判を取り上げよう。
 (1) 「区体論は、集合論を否定している」
 (2) 「区体論は、素朴集合論を否定している」
 (3) 「区体論は、公理的集合論を否定している」
 この三つについて、分けて論じる。
 
 (1) 「区体論は、集合論を否定している」
 この主張は、「集合論」と語るとき、「素朴集合論」と「公理的集合論」とを区別していない。そこに、難点がある。何を言っているのか不明である。次の(2)(3)に分けて考えるべきだろう。

 (2) 「区体論は、素朴集合論を否定している」
 これは、まったくの誤読である。区体論は、素朴集合論を形式化することを立脚点としている。「自分のよって立つもの」を否定するはずがない。それでは自己否定になる。
 このような批判は、区体論の主張を正反対に誤読していることになる。区体論が「白だ」と主張したときに、「黒だ」と主張していると誤読していることになる。お話にならない。
( ※ ついでだが、素朴集合論を否定しているのは、区体論ではなく、公理的集合論である。)

 (3) 「区体論は、公理的集合論を否定している」
 これについては、前項で述べた通りだ。区体論は公理的集合論については、何も主張していない。肯定も否定もしていない。(同じ問題を扱って、別の回答を出すことはあるが。)……これが事実だ。

 では、 (1) (2) (3) の批判がすべて見当違いの批判だとすれば、これらの批判は、いったい何を誤解して何を批判していたのか? そのことを次に示そう。


二つの集合論


 そもそも、Part1では、何を指摘したか? 次のことだ。
 「素朴集合論と公理的集合論とが両立することはない」
 通常、この二つの集合論は、両立すると思われている。(世間一般の誤解。)
 しかし実際には、そんなことはない。両者はたがいに相反する関係にある。一方が成立すれば、他方は成立しない。そのことを、Part1では指摘した。

 ただし、これを誤解する人がいる。
  ・ 「AかつB」が否定されたときに、「Aが単独で否定された」とか「Bが単独で否定された」とか思い込む。
  ・ 「素朴集合論と公理的集合論とが両立することはない」という批判を読んで、「素朴集合論を否定している」と勘違いしたり、「公理的集合論を否定している」と勘違いしたりする。
 これらは、論理的錯誤にすぎない。


正則性の公理の意味


 さて。ここで、新たな疑問が生じるだろう。
 「素朴集合論と公理的集合論とが両立することはない」
 という指摘について、
 「その指摘は本当に正しいのか?」
 ということだ。

 このことについては、すでに公開した文書では、典拠を示すだけで、具体的には何も説明しなかった。そのせいで、理解できない人が多かったようだ。
 素人ならば、そのまま信じただろう。専門家ならば、もともと知っていただろう。だが、中途半端な半玄人は、「知識」はないのに「疑問力」だけはたっぷりあるから、疑問に思うわけだ。
 そこで、典拠を示すだけでなく、もうちょっとはっきりと示しておこう。これについて説明した典拠なら、すでに公開済みだが、この典拠にある内容を、具体的に示す。書き換えると誤解されかねないので、その文章を丸ごと引用する。
 では、引用しよう。(少しだけ文章を整理したところがある。読みやすくするだけで、意味は同じ。著作物としては、著者の主張そのままである。)



 「正則性の公理。
   a1 ∋ a1 ∋ a2 ∋ a3 ∋ ……
  となるような無限列 a1 , a2 ,a3 …… は、存在しない」

 「(有限の)任意の集合から、一つまた一つというふうに元を取っていくと、必ず有限回で、空集合にたどりつく」

 「無限集合 ω についても、その中のどの集合を取っても、一つまた一つというふうに元を取っていくと、必ず有限回で、空集合にたどりつく」

 竹内外史は、このように説明したあとで、正則性公理の意味を、次のように説明する。一字一句も変えずに、そっくりそのまま引用しよう。(ただし空集合を示す記号として、0 のかわりに φ を使う。)

 「正則性の公理の意味は、なんでしょうか? 
 この公理の意味は、つぎのことです。
 『われわれの集合は空集合φから出発してその集合、その集合というふうにφから順々に行ったものだけを集合と考えていて、どこか分からないところから突然入り込んだようなものを集合とは考えない』」

 「すべての集合がφから順々に作られたものであることが分かります」



 以上の出典は、ブルーバックス B298 の 118頁以降である。著者は、竹内外史。つまり、この説明は、集合論の大家である竹内外史の言葉そのままである。また、その内容は、集合論の大家であるノイマンの発想である。ここでは、「正則性の公理」が説明されているが、「正則性の公理」を提出したのは、ノイマンである。
( ※ なお、引用部では、結論だけを示した。細かな論法は示さなかった。細かな論法は、ここには書ききれないからだ。知りたければ、自分でブルーバックスの該当箇所を読んでほしい。有名な本なので、大学図書館にはきっとあるはずだ。)

 さて。この引用の最後の箇所を読み返してほしい。「正則性の公理の意味」を解説している。そして、こう結論している。
 「どこか分からないところから突然入り込んだようなものを集合とは考えない。すべての集合はφから順々に作られたものである」
 一方、次のことは、誰にもすぐわかる。
 「現実世界のカラスやリンゴや豆などは、φから順々に作られたものではない」

 この二つの命題から、こう結論できる。
 「素朴集合論で扱われるカラスやリンゴなどは、公理的集合論の対象となる集合ではない」
 つまり、次のことがただちに判明する。
 「素朴集合論は、公理的集合論とは、食い違う」
 公理的集合論は、カラスやリンゴや豆などを扱うことを禁じている。なのに、その禁じていることを、素朴集合論はやっている。すなわち、素朴集合論は、公理的集合論とは、両立しないのだ。

 このことが、Part1で示したことだ。ここでは、「公理的集合論は間違っている」などとは主張していない。そのことに注意のこと。(そういう誤解が非常に多い。)
 ここで示されたのは、単に、
 「二つの理論(素朴集合論と公理的集合論)は、食い違う」
 ということだけだ。それを換言すれば、こうだ。
 「公理的集合論は、素朴集合論を形式化した体系ではなくて、素朴集合論とは別の発想に依拠した公理系である」
 しかも、である。そういうふうに主張しているのは、公理的集合論であって、区体論ではない。以上の説明のすべては、集合論の範囲内でなされた説明だ。
 だから、本項の件で批判したい場合は、次のように語るべきだ。
 「ノイマンはトンデモだ」
 「竹内外史はトンデモだ」
 「公理的集合論はトンデモだ」

 ところが、半玄人は、ここを誤解して、「区体論はトンデモだ」というふうに見当違いのことを主張する。しかし、はっきり言おう。区体論は、この件については何も語っていないのだ。Part1の説明は、単にノイマンまたは竹内外史の主張を引用しているだけだ。

 最後に、まとめとして、繰り返しておく。区体論が集合論について主張することは、ただ一つだ。
 「区体論の公理系は、集合論の公理系とは、異なる」
 これだけだ。これ以外には、何も主張しない。
 区体論は、区体論の範囲についての理論であり、区体論の外にある集合論については何も言及しない。集合論について言及しているのは、集合論の学者だけである。そのことを、はっきりと理解しよう。

( ※ なお、私による集合論の引用が不正確である、という批判は、成立するかもしれない。ただし、その場合には、「南堂の引用は間違っている」と批判すればいい。それだけのことである。「南堂の引用が間違っているから、区体論はトンデモだ」という主張は、論理的な飛躍である。)
( ※ ただ、「南堂の引用が間違っている」という解釈を唱える人もいるので、この件については、区体論とは別の話題として、この文書の最後の付録で解説する。)


仮表示形と正表示形


 集合論との関係はさておいて、区体論について説明しよう。区体論には、仮表示形と正表示形という、二つの体系がある。この二つの体系について、誤解をほどいておこう。


二つの体系


 区体論と呼ばれるものには、次の二つの体系がある。
  ・ 仮表示形の公理系
  ・ 正表示形の公理系
 この二つは、まったく別の公理系をもち、まったく別の理論体系である。少なくとも、形式的には、まったく異なる。ただし、発想はほとんど同じだ。体系の意味する内容も、ほとんど同じだ。
 とはいえ、いくら発想や意味が同じだとしても、形式的な理論としてはまったく別のものなのである。このことを理解しよう。両者をごっちゃにしてはならない。つまり、「区体論」という一つの言葉でくくって、「どちらも同じだ」というふうに勘違いしてはならない。
 たとえば、次の勘違いがある。
 「区体論は形式化が不十分な体系だ。実数を構築することは、まだ実現できていない。自由変項の扱い方や、準関数の扱い方も、まだはっきりしていない」
 この批判では、仮表示形と正表示形とを、混同している。この批判は、正表示形については(とりあえずは)成立するが、仮表示形についてはまったく成立しない。仮表示形は、完璧に形式化された体系である。曖昧なところなどはない。だから、
 「正表示形は形式化が不十分だから、区体論のすべては形式化が不十分だ」
 という発想は、仮表示形と正表示形とを、混同したすえの、論理的な錯乱である。勘違いしないようにしよう。


両者の相違点


 では、仮表示形と正表示形とは、どう違うか? 単純に対比すれば、こうだ。
  ・ 仮表示形 …… すでに厳密に形式化されている。範囲は自然数まで。
  ・ 正表示形 …… 厳密に形式化されていなかった。範囲は実数まで。
 
 (1) 形式化
 形式化について論じよう。仮表示形と正表示形は、次のように異なる。
  ・ 仮表示形 …… すでに厳密に形式化されている。方法は、述語論理を用いる。
  ・ 正表示形 …… 厳密に形式化されていなかった。方法は、自由変項を用いる。
 多くの批判は、「正表示形は十分に形式化されていない」というものだ。しかし、見ればわかるとおり、すでに厳密に形式化されているのは、仮表示形だけである。
 Part2では、述語論理を用いて、厳密に形式化した。ただし、そのことは、仮表示形だけに当てはまる。正表示形については、Part2では何にもなしていない。
 Part3では、正表示形について語っている。ただし、そこで示したことは、厳密な形式化ではない。Part3は、すでに示した文書(2005年9月まで)では、構築の途上である。

 ところが、ここを誤解して、ごっちゃにする批判がある。
 「区体論は十分に形式化されていない」
 この批判は、お門違いだ。正しくは、こうだ。
 「仮表示形の区体論は、すでに十分に形式化されている。正表示形の区体論は、形式化する方法の大筋(アイデア)が示されているだけであった」

 もともと「大筋を示すこと」が目的であるのに、それを「細部が欠落している」と批判するのは、お門違いだというしかない。ただの「無い物ねだり」である。厳密さを求めるなら、正表示形に求めるのではなく、仮表示形に求めるべきだ。表示形には厳密さがある。

 (2) 範囲
 範囲について論じよう。仮表示形と正表示形は、次のように異なる。
  ・ 仮表示形 …… 範囲は自然数まで。
  ・ 正表示形 …… 範囲は実数まで。

 つまり、仮表示形は、厳密ではあるが、厳密さの代償として、範囲が狭い。(自然数までだけであり、実数までは届かない。)
 一方、正表示形は、厳密さは不足しているが、範囲が広い。(実数まで届く。)
 この両者を比較すれば、次のように言える。
  ・ 仮表示形 …… 完成されているが、狭い体系である。
  ・ 正表示形 …… 未完成であるが、広い体系である。

 仮表示形は、理論としては完成している。それは、完成されているがゆえに、厳密に形式化されている。ただし、扱う範囲が狭い。また、完成されているがゆえに、未知の結論が新たに登場するわけでもないので、面白くない。普通の自然数論が構築されるだけだ。
 正表示形は、理論としては未完成である。それは、未完成であるので、厳密に形式化されていない。ただし、扱う範囲が広い。また、未完成であるがゆえに、未知の結論が新たに登場する可能性もあるので、面白い。普通の実数論が構築されるのではなく、まったく新たな実数論が構築されそうだ。

 さて。以上の (1)(2) で、仮表示形と正表示形の違いを示した。改めて対比する形でまとめると、こうだ。
  ・ 仮表示形 …… すでに厳密に形式化されている。範囲は自然数まで。
  ・ 正表示形 …… 厳密に形式化されていなかった。範囲は実数まで。
 この両者は異なる。このことに注意してほしい。
 一方、次の解釈は、間違いである。
 「区体論という一つの体系がある。その体系は、厳密に形式化されていて、かつ、範囲は実数までである」
 たいていの批判は、これを「区体論の主張」だと思い込む。現実とは異なる「区体論の主張」を勝手に想定して、それについて批判する。しかし、そんな批判は、ただの虚像への批判にすぎない。ありもしない妄想の怪物を攻撃する、ドン・キホーテのようなものだ。お話にならない。

( ※ 正表示形の区体論が厳密に形式化されたのは、2005年9月である。この件は、話が面倒になるので、「発展編」の文書で説明する。)


仮表示形という体系


 仮表示形という体系は、すでに厳密に形式化されている。このことについて、注釈しておこう。


濃度の公理


 区体論は、原則として、濃度の公理をもたない。「濃度の公理をもてない」のではなくて、「あとで自由に追加する」という形を取る。
 実際に数学を構築するときには、区体論の体系と濃度の体系とを、いっしょにとる。通常は、無限公理(ペアノ公理に相当する公理)を併用する。
 ただし、無限公理を取ることは、必須ではない。かわりに、有限の濃度(たとえば1)を取っても、そのような(濃度が1である)数学空間を構築できる。

 この立場は、集合論の立場とは異なる。集合論の立場は、こうだ。
 「最初からすべての公理を備えて、そのなかで数学を構築する」
 一方、区体論の立場は、こうだ。
 「最初は必要最小限のものだけを用意する。そのあとで、オプションふうに、濃度の公理をお好みで追加する。」

 この発想の違いは、比喩的に言えば、次のようになる。
  ・ 多くの機能が最初から装着された、大手メーカー製パソコン。
  ・ 最小限の機能にオプションを加える、カスタマイズパソコン。
 最初の状態だけを見れば、前者の方がずっと強力だ。ただし、後者は、カスタマイズすることで、どのようにでも強力になれる。後者は、初期状態(素の状態)では、ほとんどカラっぽだが、だからといって「後者は貧弱だ」と評価するのは、間違いだ。あとでいくらでもオプションを追加して、強力になるからだ。
 このような発想の違いを理解しよう。


形式化の方法


 では、なぜ、区体論(仮表示形)では、無限公理がオプションになっているのか? それは、無限公理を付けたりはずしたりすることで、いろいろと便利なことがあるからだ。

 (1) 無矛盾性
 無矛盾性の証明は、「仮表示形の公理だけ」の状態でなされる。そのとき使われるモデルは、「アトムが一つだけ」というモデルである。これを示すには、無限を含まない体系を使うと便利だ。
 
 (2) 自然数の構築
 自然数の構築には、無限公理が必要である。ここでは、「仮表示形の公理系と無限公理」という組み合わせの状態で、数学空間が構築される。(アトムが無限個ある状態まで話が展開する。)

 さて。ここで、(1)と(2) を混同してはならない。すなわち、次のことは成立しない。
 「仮表示形と無限公理という体系で、無矛盾性が証明される」
 この命題は、ゲーデルの不完全性定理に、明白に反する。ゆえに、偽である。そしてまた、このことは、(1)(2) からは示されない。
 
 要するに、「仮表示形」と呼ばれる体系は、一つではないのだ。無限公理のある体系と無限公理のない体系とがある。前者では、無矛盾性が証明されるが、自然数を構築できない。後者では、無矛盾性を証明できないが、自然数を構築できる。この両者をごちゃ混ぜにしてはならない。
 従来の数学との比較で言うと、おおざっぱに、次の類似が成立する。
  ・ 無限公理なしの仮表示形区体論 …… ブール代数に近い体系
  ・ 無限公理ありの仮表示形区体論 …… 集合論に近い体系
 ここでは、仮表示形区体論という言葉で呼ばれるものに、二通りがあることになる。無限公理があるものと、無限公理がないものと。それぞれ、別の体系である。ところが、これを誤解して、批判する人がいる。
 「仮表示形は、『無矛盾性と自然数論とを両立させている』と主張するが、ゲーデルの不完全性公理ゆえに、そんなことはありえない」
 これは、勘違いである。「無矛盾性と自然数論とを両立させている」なんてことは、区体論は主張していない。
  ・ 無限公理なしの仮表示形区体論 …… 無矛盾性を示せる
  ・ 無限公理ありの仮表示形区体論 …… 自然数論を示せる
 この二つが別々に成立するだけだ。「仮表示形区体論」という言葉で、二通りの体系をごっちゃにしてはならない。


仮表示形の位置づけ


 区体論とは何か? 特に、仮表示形の区体論とは何か? その位置づけをしよう。


ブール代数との類似


 まず、理論的に考慮すれば、次のように位置づけることができる。
 「区体論は、ブール代数の拡張である」
 これまでの話では、区体論を集合論と対比させてきた。ただし、それは、初心者および専門家向けの話だ。(ここでは本質的な面を重視するので、集合論と対比するのが適当だ。)
 一方、半玄人向けに話をするなら、区体論はブール代数と対比するのが正しい。(ここでは形式的な面を重視するので、ブール代数と対比するのが適当だ。)
 ブール代数というのは、数学科の学生ならば知っているだろう。そして、ブール代数の体系こそ、形式的な面から見て、区体論と比べるべき理論だ。そして、比べたあとで、次のように評価できる。
 「区体論は、ブール代数に似ているが、ブール代数と同じではない。ブール代数よりも、少し強い理論である。その差は、公理8があること(アトムを扱えること)だ」
 要するに、おおざっぱには、こう言える。
 「区体論とは、公理8のあるブール代数(アトムつきのブール代数)である」
 こういう形で、区体論はブール代数を拡張したものである。これが区体論に対する位置づけだ。(形式的に見て。)

 とすれば、区体論についての否定的な評価は、そっくりそのまま、ブール代数への否定的な評価になる。次のように。
 「区体論は、集合論と違って、測度を扱えない。ゆえに、区体論は無意味である」
 → 「ブール代数は、集合論と違って、測度を扱えない。ゆえに、ブール代数は無意味である」
 つまり、「測度を扱えない」という点で区体論を否定するのであれば、同じく、「測度を扱えない」という点でブール代数を否定することになる。……その馬鹿らしさは、すぐにわかるだろう。ブール代数は、ブール代数で扱える範囲のものを扱う。その範囲には、測度は含まれていない。それだけのことだ。同様に、区体論は、区体論で扱える範囲のものを扱う。その範囲には、測度は含まれていない。それだけのことだ。
 似た話は、いくらでもある。
 「解析学は、確率を扱えない。ゆえに、解析学は無意味だ」
 「群論は、ユークリッド幾何学を扱えない。ゆえに、群論は無意味だ」
 「高度な数学は、買物の計算に役立たない。ゆえに、高度な数学は無意味だ」
 いずれにせよ、見当違いの批判である。

 では、こういう勘違いを避けるには、どう判断すればいいか? こうだ。
 「数学の理論を評価するには、それが何に役立つかというようなことを考える必要はなく、それが一つの数学空間を作るかどうかだけを考えればいい」
 この点から言うと、次のものは、いずれも一つの数学空間を作る。
  ・ 群の空間
  ・ ベクトル空間
  ・ ユークリッド空間
  ・ 非ユークリッド空間
  ・ 確率空間
  ・ ブール代数の空間
  ・ 区体論の空間
 このようにして、区体論への評価も、だいたいわかる。それは、他の数学空間と同様に、一つの数学空間である。つまり、区体論という理論は、公理系によって規定された数学空間を構成する理論である。……それ以上でもなければ、それ以下でもない。
 ここにおいて、「区体論は集合論よりも役立つか」という観点から、「測度を扱えるか」というふうな評価をするのは、あまりにも見当違いである。その見当違いは、「群論はユークリッド幾何学を扱えるか」というような見当違いと、同様である。
 繰り返す。一つの理論が成立するかどうかは、役立つかどうかとは、関係のない話だ。だいたい、そんなことを言い出したら、「群論」や「集合論」が最初に提出された時点でも、「そんなものが何に役立つんだ」というふうに否定されてしまうので、今日、群論や集合論は、成立していなかっただろう。
( ※ 群論は、量子力学では重要なものとなっている。ただし、群論が初めて数学の世界に現れたときには、「群論は量子力学に役立つ」ということは、予想されていなかったはずだ。仮に半玄人が初めて群論を見たなら、「群論は測度や幾何学にとっては役に立たないので無意味」と評価して、群論を数学の世界で扱うことを拒否しただろう。)


ブール代数との違い


 では、区体論は、ブール代数とまったく同様のものであるのだろうか? 違う。形式的には、ブール代数に似ているが、意味的には、集合論に似ている。……では、このことは、どのような意味があるか? それは、こうだ。
 「集合論とほぼ同等の理論を構築するのに、既知の方法とは異なる方法がある」
 ここで、「既知の方法」とは、「集合論の公理系」に基づく方法だ。一方、それとは別に、「ブール代数の公理系に似た公理系」(区体論の公理系)に基づく方法も、あるのだ。──つまり、同じようなところにたどり着くにしても、異なるアプローチがある。
 このアプローチの違いは、発想の違いでもある。発想の違いは、用いる記号の差で示せる。
  ・ ∈ という記号を使う発想 …… 集合論
  ・ ⊂ という記号を使う発想 …… 区体論,ブール代数
 両者は、発想が異なる。まずは、この発想の違いを理解しよう。
 そのあとで、次のように、アプローチの差が生じる。
  ・ ∈ という記号を使う発想 → 数学基礎論
  ・ ⊂ という記号を使う発想 → 数学基礎論
  ・ ⊂ という記号を使う発想 → 代数学
 1番目と2番目は、その発想から、数学基礎論へと進む。3番目は、代数学へと進む。そういう違いがある。(ここではもちろん、1番目が集合論で、2番目が区体論で、3番目がブール代数だ。)

 まとめて言おう。
 数学基礎論に向かうには、「 ∈ という記号を使う発想」と「 ⊂ という記号を使う発想」との、二通りがある。ただし、「 ⊂ という記号を使う発想」でも、ブール代数は、数学基礎論には向かわず、代数に向かう。一方、区体論は、ブール代数に公理8を加えることで、数学基礎論に向かうことができるようになった。


基本的性質


 前項で述べたとおり、「 ∈ という記号を使う発想」と「 ⊂ という記号を使う発想」との、二通りがある。では、この両者には、どういう違いがあるのか? 実は、次のことが言える。
 「 ⊂ という記号の関係には、数学の根源的な性質が備わる」
 具体的に言えば、次のものだ。
  ・ 反射率     (区体論の公理1)
  ・ 推移律     (区体論の公理2)
  ・ 最小元の存在  (区体論の公理3)
  ・ 最大元の存在  (区体論の公理4)
  ・ min 元の存在  (区体論の公理5)
  ・ max 元の存在  (区体論の公理6)
  ・ 逆元の存在   (区体論の公理7)
  ・ 可算選択公理  (区体論の公理8)
 これらはいずれも、数学としては否定しがたい原理だ。このような公理を否定するとしたら、たいていの数学空間は成立しなくなってしまう。それほどにも重要な公理だ。(だから、最後の公理8を除けば、残りの七つの公理は、区体論とブール代数に共通する。)

 結局、「 ∈ という記号を使う発想」のかわりに、「 ⊂ という記号を使う発想」を取ることにより、数学の体系をきわめて簡明に美しく表現できる。これが区体論のメリットだ。
 そして、歴史の示すところでは、たいてい、次のことが成立する。
 「ほぼ同等のことを示すのに、簡明で美しい理論と、複雑で面倒な理論がある場合、真実は、前者で示される。後者は、前者(真実)の近似であるにすぎない。ほぼ同様であっても、二つの理論にわずかな違いが出るとしたら、後者がもともと真実の近似にすぎなかったからだ。」

 なお、ついでに、「 ∈ という記号を使う発想」と、「 ⊂ という記号を使う発想」との、本質的な差を占めそう。それは、次のことだ。
 「包含を考察するときに、階型という概念は必要か」
 ここで、「階型」というのは、元と集合との関係のことを言う。たとえば、
   a ∈ {a,b}
 という式では、a よりも {a,b} の方が、一つ高い「階型」にある、と見なす。もっとはっきり言えば、次の式で書ける。
   a ≠ {a}
 集合論の発想では、 a と {a} とは異なる。ここでは、カッコというものに、特別な意味がある。しかし、カッコというものが、そんなに大切なのだろうか? 
 実を言うと、集合論とは、「空集合から構成されたものを考察する理論」であるがゆえに、それは、「カッコの数を数える理論」なのである。一方、区体論は、「カッコをはずして、残った a を数える理論」なのである。……この件については、話が面倒になるので、最後の「付録」であらためて説明する。


まとめ


 まとめを述べよう。


二通りの評価


 以上に述べたことをまとめて、区体論(仮表示形)に対する評価を与えよう。

 (1) 結論の一致
 区体論(仮表示形)は、集合論と比べて、可算の範囲では同じ結論を与える。

 (2) 発想の違い
 区体論(仮表示形)は、集合論と比べて、発想はまったく異なる。

 要するに、結論は同じでも、発想はまったく異なる。このことを、どう評価するか? 実は、それは、評価者しだいである。つまり、「人それぞれ」だ。通常、次の二通りの立場に分かれる。

 <II> 否定的評価
 「区体論(仮表示形)は、自然数までしか扱えない。しかも、得られる結論は、集合論とまったく同じだ。ゆえに、無意味である」
 この立場は、一応、成立する。ただし、この立場を取ると、次のような立場も成立してしまう。
 「ZFとBGは、等価であるので、後者は無意味な理論である」
 「波動力学と行列力学は、等価であるので、後者は無意味な理論である」
 「ある概念Aとある概念Bが等価であることを示す証明は、すべて無意味である」
 こういう発想は、あまりにも非数学的であろう。
 さらに言うと、次のような極端な評価も出てくる。
 「既存の理論と同等の結論を出す理論は、無意味である。無意味であるから、間違っており、トンデモである」
 この説に従うと、区体論と等価であるという点で、既存の数学もまた、全面否定されてしまうことになる。ここでは、「新規性があるか否か」ということと、「役立つか否か」ということとが、混同されている。

 <I> 肯定的評価
 「区体論(仮表示形)は、自然数までしか扱えない。しかも、得られる結論は、集合論とまったく同じだ。ゆえに、無意味であると見える。とはいえ、根源的な発想は、まったく異なる。とすれば、どこかで違いが現れるはずだ。そこが興味深い」
 すでに述べたように、集合論と区体論は、似て非なる理論である。発想が異なるし、公理系も異なる。原理的には、両者はまったく異なる理論である。にもかかわらず、自然数までの範囲では、同じ結論を出す。つまり、こうだ。
 「まったく異なる理論が、ある狭い範囲では、同一の結論を出す」
 このことは、次の可能性を予想させる。
 「その二つの理論は、狭い範囲では同一の結論を出すが、より広い範囲では異なる結論を出す」
 このことは、豊かな可能性を感じさせる。


世界観の違い


 前項のことを示すのに、たとえ話を示そう。
 「天動説」と「地動説」という二つの説があった。天と地との関係を見る限り、どちらも成立する。この二つの関係(という狭い範囲のこと)だけを見れば、両者の違いは現れない。とはいえ、宇宙全体における関係(という広い範囲のこと)を見れば、両者に違いが現れる。
 根本的な発想が違えば、どこかで何らかの違いがあられるはずなのだ。そうわかる。

 とすれば、
 「ある範囲では同じ結論を出す二つの理論がある」
 というのは、非常に興味深いことなのだ。ここでは、「どちらが役に立つか」ということは、まだわかっていない。たとえば、天動説と地動説の双方が現れたとき、どちらが役に立つかは、まだわかっていない。だから、この時点で「どちらが役に立つか」と考えるのは、好ましくないのだ。この時点ではただ、「似て非なる理論があるから、どちらも考えよう」というふうに、興味をもって研究することだけが大切なのだ。
 仮に、「役立つか」ということだけを判断基準とした場合、「天動説は役立ち、地動説は役立たない」というふうに結論される。なぜなら、「天動説は神の偉大さを証明するが、地動説は神の偉大さを証明できない。ゆえに、役立たずだ」という結論が出るからだ。
 
 科学の研究において大切なのは、「その時点で役立つかどうか」ではなくて、「理論的に成立するかどうか」ということだけだ。「理論的に成立する」とわかれば、研究すればいい。「理論的に成立するが、役立たないから、捨ててしまえ」というのは、天動説を唱えて地動説を弾圧した宗教裁判と同様に、非科学的なのである。
 研究を始める時点において大切なのは、その時点で得られた成果ではない。最初に得られた成果というものは、通常、ちっぽけなものでしかない。それよりは、「発想の違い」「世界観の違い」こそ、重要となる。「発想の違い」「世界観の違い」があれば、将来的に大きな成果をもたらす可能性があるからだ。
 そして、その成果とは、「正しいか正しくないか」ではない。「数学の領域を広げるか否か」である。群論であれ、非ユークリッド幾何学であれ、その理論は、従来の理論に対して、「間違いを訂正するような、正しい理論」であったわけではなくて、「既存の理論では扱えない領域を開拓するような、新しい理論」であっただけだ。
 区体論も同様だ。


公理8と公理9


 区体論は、集合論を否定するのではなくて、集合論では扱えなかった領域を開拓する。このことは、ごくおおざっぱに言って、次のように言える。
  ・ 区体論(公理8あり) …… 集合論と等価の体系
  ・ 区体論(公理9あり) …… 集合論にない領域を扱う体系
 要するに、区体論には、右の顔と左の顔がある。右の顔の区体論を取れば、集合論と等価になる。左の顔の区体論を取れば、集合論にない領域を扱える。……左右の二つの顔を合わせれば、こう言える。
 「区体論は、集合論の拡張である」
 この事情は、次の事情に似ている。
  ・ n次元空間は3次元空間の拡張である
  ・ 量子力学は古典力学の拡張である
  ・ 相対論はニュートン力学の拡張である
 これらと同じような意味で、区体論は集合論の拡張となっている。つまり、通常の領域では集合論とほぼ等価であるが、より広い領域にまで踏み込むことができる。その新たな領域では、区体論は豊かな成果を結論できるが、集合論はその領域に入ることはできない。集合論は、区体論よりも、ずっと狭い理論体系なのである。
 そして、その差は、公理8の有無による。区体論では、公理8を採用することで、集合論と等価の体系になれる。一方、公理8をはずして、かわりに公理9を取ることで、集合論とは別の体系を構築することもできる。

   区体論 = 公理8の区体論 + 公理9の区体論

 このことが重要だ。集合論は、「公理8の区体論」に相当するものだ。そして、「公理9の区体論」に相当するものには、決してなりえない。なぜなら、最初の発想が、もともとそういう形で制限されているからだ。その制限は、「 ∈ という記号」に由来する。
 「 ∈ という記号」を取る限り、どうしても、「公理8の区体論」と似た形になってしまう。「公理9の区体論」に似た形を取るには、「 ∈ という記号」のかわりに、「 ⊂ という記号」を取らなくてはならない。しかるに、そのことは、集合論の発想では原理的に不可能なのだ。もともと「 ∈ という記号」に基づいた発想なのだから。
 


正表示形


 前項で述べたこと(「公理8の区体論」と「公理9の区体論」との違い)は、予想である。このことが完璧に証明されたわけではない。
 ただし、そうなることは、予想されている。その予想には、十分な数学的な根拠がある。ただ、その話は、仮表示形の話ではなく、正表示形の話である。また、その話は、もともと明らかになっていたわけではなくて、2005年9月になって、ようやく判明したことである。
 これらの詳細は、話が面倒になるので、「発展編」で示すことにする。
 とりあえず、この文書で述べるべき目的(誤解をほどくこと)は、ここで終了する。区体論の成果について、さらに詳しい話を知りたい人は、次の「発展編」を読んでほしい。

 → 発展編


付録


 本文中で述べたことで、記述を簡略化した箇所があるので、うるさい人向けに、細かな説明を以下で補足しておこう。区体論自体の話ではなくて、集合論についての話である。(特に読まなくてもよい。)


素朴集合論と公理的集合論


 素朴集合論と公理的集合論の関係について述べる。その趣旨は、こうだ。
 「公理的集合論は、素朴集合論を公理化した体系ではない」
 これはごく当たり前のことである。たとえば、カントールのパラドックスや、ラッセルのパラドックスは、素朴集合論では生じるが、公理的集合論では生じない。とすれば、この二つは当然、別の理論である。「似て非なる理論」と言ってもいいだろう。それだけのことだ。まともな数学者ならば誰でも知っていることである。
 ところが、これを曲解して、次のように判断する人がいる。
 「区体論は集合論を否定している」
 これはもちろん曲解である。本文書の冒頭でも述べたとおり、区体論は集合論については何も言及しない。区体論は区体論について言及するだけだ。集合論について言及するのは、集合論の関係者だけだ。たとえば、ノイマンや竹内外史である。
 ただ、私がこれらの人名を引用したことで、次のように判断する人もいる。
 「南堂は集合論を否定している」
 これももちろん誤解である。私が述べているのは、こういうことだけだ。
 「区体論と集合論とは別の体系である」
 
 とにかく、まとめて言おう。
 「公理的集合論は素朴集合論の公理化にはなっていない」
 「そのことは、数学の世界でも常識である、というふうに南堂は示した」
 「半玄人は、区体論が集合論を否定している、と曲解した」
 「しかし、区体論それ自体は、集合論については何も言及しない」
 「集合論について言及しているのは、集合論の学者である」
 ここまでは、本文で示した通りだ。(竹内外史の著作から引用した。)


正則性公理


 ただし、本文で記述したことだけでは、いささか説明不足のところもある。そこで、付録として、ここではさらに説明を加えよう。

 (1) 正則性公理の意味
 正則性公理の意味は、先に示したとおりだ。竹内外史の言葉を引用すれば、次の通り。
 「われわれの集合は空集合φから出発してその集合、その集合というふうにφから順々に行ったものだけを集合と考えていて、どこか分からないところから突然入り込んだようなものを集合とは考えない」
 「すべての集合はφから順々に作られたものである」
 まずは、このことを理解しよう。
( ※ なぜそうかと言うと、それぞれの集合から「一つまた一つ」というふうに内部の集合を取り除いていくと、最終的には、φ にたどり着くからだ。このことは、竹内外史の本に書いてあるとおり。)

 (2) 正則性公理からの結論
 正則性公理から、次のことが結論される。
 「無限循環する集合は存在しない」
 このことから、「すべての集合からなる集合 W は存在しない」とわかる。仮に、Wが存在すれば、
    …… ∈ W ∈ W ∈ W ∈ W ∈ ……
 というふうに無限循環してしまうからだ。こうして、正則性公理を通じて、「カントールのパラドックス」を回避できる。また、ほぼ同様の原理で、「ラッセルのパラドックス」も回避できる。

 (3) 正則性公理と個物
 今、集合論の世界に、個物があるとしよう。この個物は、どう扱われるか? 
 第1に、個物が φ 以外の集合であるとすれば、個物からどんどん集合を取り除いていくことで、最終的には、個物には φ しか残らなくなる。
 第2に、個物が φ である場合には、そこで操作は終了である。
 いずれにせよ、個物は φ であることになる。このことは、言語的には変(奇妙)ではあるが、「あらゆる集合は φ から構成されたものである」という命題には反しない。
 そこで、そのような体系を、あらためて考察しよう。話は次項へ続く。

[ 補足 ]
 正則性の公理について、私なりに少し補足しておく。
 正則性の公理は、形式的には、「出所のはっきりしない集合を除外すること」を意味する。このことは、「あらゆる集合の集合を認めない」という目的(歴史的な事情)とは、同じではない。── つまり、ある目的のために、正則性の公理を導入したのだが、両者は等価ではない。実は、ここでは、正則性の公理は、「強すぎるのである。例えば、区体論では、「あらゆる集合の集合」というものは、もともと考えられない。だとしても、そこでは、「正則性の公理」は存在しない。
 なお、「あらゆる集合の集合を認めない」という目的のために、「正則性の公理」を特に必要としないはずだ、という発想もある。それは、次の前提が満たされる場合にのみ、正しい。
 「集合論は無矛盾である」
 このことが判明していれば、正則性の公理は、なくても構わない。しかし実際には、「集合論は無矛盾である」ということは証明されていない。というわけで、「あらゆる集合の集合を認めない」という目的のために、正則性の公理はとりあえずは必要となる。


KPU


 集合論の世界に個物を導入した体系を KPU という。この体系では、個物を取り扱うことができる。
 ただし、注意しよう。ここでは、個物は φ と同様のものとして扱われる。「同様のもの」というのは、次のことだ。
  ・ 個物と φ とは、意味的には同じではない。
  ・ 個物は、集合としては、φ とは区別されない。
 具体的に言おう。特定の個物たるカラスを示すための記号として、Bという記号を使う。Bはカラスを意味する。Bは空集合とは異なる。
 しかしながら、この理論の内部では、Bを集合として扱う限りは、Bを φ と区別することができない。Bを φ と区別するには、「Bが集合であるか否か」を、あらかじめ知っておかなくてはならない。
  ・ Bが集合でなければ → Bは個物である
  ・ Bが集合であれば  → Bは空集合である
 つまり、KPU という体系は、「集合でないもの」と「集合であるもの」とを別々に扱う。これは、二本立ての体系であり、一つの体系ではないのだ。

 一般に、あらゆる理論は、その理論の内部にあるものを「体系内の要素」として扱う。次のように。
  ・ 区体論では    …… 体系内のすべての X は、区体である。
  ・ 群論では     …… 体系内のすべての X は、群の要素である。
  ・ ベクトル空間では …… 体系内のすべての X は、ベクトルである。
 ところが、KPUでは、次のようになる。
  ・ 体系内の X が個物であれば …… 個物のための公理系を適用する。
  ・ 体系内の X が集合であれば …… 集合のための公理系を適用する。
 これは、二本立ての体系であり、一つの体系ではない。


評価


 以上のことをまとめて、評価しよう。

 素朴集合論では、カントールのパラドックスや、ラッセルのパラドックスなどの、深刻な問題が生じた。そこで、これを回避するために、正則性の公理を導入して、奇妙な集合を排除した。このとき、すべての集合について、「空集合から生じたものだけ」という制約を課した。
 その制約を課すと、個物はうまく扱えなくなった。次のいずれかである。
  ・ 個物そのものを完全に排除する。
  ・ 個物を排除はしないが、φ と同様のものとして扱う。
 後者の場合、個物は、「集合の世界からは見えないもの」というふうに扱われる。いわば、透明なものだ。空っぽではないのだが、集合の世界からは見えない。φ と同じではないのだが、集合として見る限りは個物を φ と区別できない。区別するためには、個物を「集合として見る」のではなく、「個物として見る」という操作が必要になる。しかし、それは、理論体系を二本立てにすることになる。

 結局、こう言える。
  ・ 個物を、集合として見れば、個物としてうまく扱えない。
  ・ 個物を、個物として見れば、集合としてうまく扱えない。
 換言すれば、こうだ。
  ・ 個物を公理的に扱うと、個物を個物としてうまく扱えない。
  ・ 個物を個物として扱うと、個物を公理的にうまく扱えない。
 これを説明すれば、こうだ。
  ・ ZFという体系は、公理的であるが、素朴集合論とは別の体系だ。
  ・ KPU という体系は、素朴集合論を公理化したものだが、一つの体系ではない。
 これを換言すれば、こうだ。
  ・ 公理的であれば、素朴集合論にならない。
  ・ 素朴集合論であれば、公理的にならない。
 
 要するに、付録の冒頭にも述べたとおり、次のことが言える。
 「公理的集合論は、素朴集合論を公理化した体系ではない」
 そして、これは、ごく当たり前のことなのだ。同じ記号 ∈ を用いるとはいえ、公理的集合論と素朴集合論とは、まったく別の理論体系なのである。このことをはっきりと理解しよう。
 なお、合点が行かない人のために、このことの本質を次項で示す。


本質


 形式化の前に、発想法を考えよう。

 (1) 素朴集合論
 最初にあったのは、素朴集合論だ。これは、個物を集合という形で扱う。たとえば、カラスB、C、D があるときに、
   {B,C,D}
 という集合を考える。ここでは、個物であるカラスと、それらの集合とが、ともに存在する。集合とは、個物の集まりである。数えられるものは、個物の数である。

 (2) 公理的集合論
 次に生じたのは、公理的集合論だ。ここでは、個物を排除して、空集合だけから、次々と集合を構成していく。個物がないのだから、あるのはカッコだけである。
 ここで、一番最初にあるのが、ただのカッコだけであるような集合、つまり、空集合 である。空集合は、次の式でも書かれる。
  φ = { } 
 ここでは、数えられるものは、カッコの数である。
 なお、この過程では、「素朴集合論」とはいささか異なる事情が必要になった。素朴集合論では、「個物」という概念があるのだが、公理的集合論の発想では「個物」という概念がないからだ。

 (3) 区体論
 一方、「個物だけを残して、カッコを排除する」という立場もあるだろう。では、その発想で、素朴集合論を公理化すると、どうなるか? 実は、そういう発想で生じたのが、区体論なのである。
 「集合論のカッコをはずして、個物の包含を考える」
 この方針で公理化されたものが、区体論の公理系だ。このことは、発案者である私が明言しているのだから、間違いない。
 なお、この過程では、「素朴集合論」とはいささか異なる事情が必要になった。素朴集合論では、「カッコ」という概念があるのだが、区体論の発想では「カッコ」という概念がないからだ。

 結局、以上の(1)(2)(3)をまとめると、次のように図式化できる。

              公理的集合論
    素朴集合論
              区体論

 最初にあったのは、「素朴集合論」であった。このあと、この体系を公理化することにした。すると、公理化する過程において、方向が二つの道に分かれた。
  ・ 個物 を排除した公理系 (公理的集合論)
  ・ カッコを排除した公理系 (区体論)
 この二つの体系は、いずれも、素朴集合論を公理化しようとして生じた体系だ。ただし、公理化する過程で、素朴集合論をそっくりそのまま公理化するのではなくて、「個物」と「カッコ」との、どちらか一方を捨てることになった。なぜなら、双方を含むと、パラドックスが生じるからだ。
 かくて、二つの道に分かれて、「公理的集合論」と「区体論」との二つが生じた。いわば、一人の親から生まれた、二人の兄弟のように。

( ※ 余談だが、KPUという体系は、個物を扱うとはいえ、あくまで集合論の一種である。このことを示すために、比喩的に言おう。KPU という体系は、いわば、「 φ に色を付ける」という操作に相当する。そのことで、「青い φ」や、「赤い φ」や、「緑の φ」などができて、区別できる。ただし、区別するためには、「色カメラ」という特殊な道具を使ってみることが必要だ。一方、集合論の世界には、「色」という概念がない。だから、集合論の世界では、どのような色の φ も、区別されずに見える。つまり、個物であろうと、空集合であろうと、区別されずに、集合としては同じように見える。……このことからわかるとおり、集合論としてみた場合、KPU は通常のZFと、まったく等価である。単に「 φ に色を付ける」という操作をしただけにすぎないのだ。KPU では、個物を個物として扱うことはできない。個物を個物として扱うには、別の理論が必要となる。そして、その別の理論とは、区体論のことだ。すなわち、カッコを使わない包含の理論である。)


付言


 ともあれ、この文書で述べたことの要旨を簡単に言えば、次のようになる。
 「区体論と集合論とは、別の体系である」
 ここでは単に、二つの理論体系があることが示されるだけだ。良し悪しは述べていない。当然ながら、「区体論が正しくて、集合論は間違っている」とは述べていないし、逆に、「集合論が正しくて、区体論は間違っている」とも述べていない。
 ここでは単に、二つの理論体系があることが示されるだけだ。だから仮に、
 「区体論が正しくて、集合論は間違っている」
 と述べる人がいたら、その人は、「トンデモ」と呼ばれてよい。同様に、
 「集合論が正しくて、区体論は間違っている」
 と述べる人がいたら、その人は、「トンデモ」と呼ばれてよい。なぜなら、数学においては、理論が正しいとか正しくないとかは、無意味な言葉だからだ。ある数学理論は、矛盾が証明されていない限り、まともな理論として扱われる。それぞれの理論について、「正しい」とか「役立つ」とかの評価は、まったく非数学的である。

 よく聞く話だが、メーカーの技術者はしばしば、こう言う。
 「数学なんて、何の役に立つんだ。せいぜい微積分があれば十分だよ。高度な数学なんて、必要ないね。そんなものはなくても、ちゃんと立派な製品を作ることができる。数学なんて、役立たずの理論だ。一円の利益すら生むこともない。数学者に余計な人件費がかかるだけ、無駄だ。数学なんて、廃止してしまえ」
 こういうふうに、数学について「役立つか否か」を評価するのは、まったく非数学的なことである。論じるのも馬鹿らしい。
 区体論も同様だ。区体論について「役立つか否か」を評価は、まったく非数学的なことである。区体論については、単に「その体系が無矛盾な体系となるか」だけを判断すればいい。そのあと、興味のある人は研究すればいいし、興味のない人は研究しないでほったらかしておけばいい。それだけのことだ。
 ただし、勘違いをする人は、こう思う。
 「区体論は、集合論を、否定している。ゆえに、区体論は、トンデモだ」
 あまりにもひどい誤読である。この文章で説明していることと正反対のことを主張している。著者本人が語っていることとは逆の読み方をして、架空の存在に向かって非難している。(この件は、「誤読解説編」でも説明したとおり。)

 区体論と集合論の比較では、二つの理論体系があることが示されるだけだ。良し悪しなどはない。ただし、実用的な見地から、「どちらがいっそう現実に適合するか」という問題は、起こるかもしれない。とはいえ、それは、数学の問題ではなくて、数学の応用の問題だ。
 数学という体系は、それ自体は、何の役に立たなくてもいい。単に無矛盾な体系であればいい。そのあと、その理論が、何かの役に立つにせよ、役に立たないにせよ、それは、その理論自体の問題ではなくて、その理論の応用の問題である。──そして、理論をどう応用するかという問題については、理論の研究者は何も語らないのだ。群論であれ、集合論であれ、あらゆる数学理論の研究者は、その理論をどう応用するべきかについては、何も語らない。それが普通である。(例外もあるが。)


補足


 「区体論は測度を扱えないから無意味だ」
 という批判がある。これについて言及しよう。
 実は、この批判には、根源的な難点がある。次の二つだ。

 (1)
 そもそも「測度」というのは、実数論を建築したあとで、ずっと先の方で登場する概念である。そんなものを根拠として引き合いに出す、という発想が、まったくおかしい。
 今はまず、数学の基礎を建築する話をしている。この段階で先の方の話題を出すということからして、根源的に狂っている。
 比喩的に言えば、こうだ。
 「松井秀喜は、大リーグで活躍するスーパー野球選手である。しかし、彼は小学1年生のときには、プロ野球の選手にはまともに対抗できなかった。ゆえに、小学1年生のときの松井秀喜が、野球の練習をすることは、無意味である。小学1年生のときの彼は、野球の練習をやるべきではなかった」
 こういう批判は、まったくお門違いだろう。「小学1年生のときの段階から、だんだんと成長させていくことが大事だ」ということを話題にしているときに、「小学1年生のときの段階では、大人の野球選手に対抗できない」というふうに批判しても、まったくのナンセンスである。ここではむしろ、「小学1年生のときですら、彼は十分に野球の能力があった」ということに着目するべきなのだ。それが正しい。

 区体論も同様だ。区体論の上に立つ数学が、まだ子供状態であるときに、「高度な数学を扱えない」と批判しても、何の意味もない。それはこれから扱う課題であり、今現在の話題ではないのだ。
 では、今現在の話題とは? それは、こうだ。
 「区体論は、自然数論や実数論を扱える」
 このことこそが重要なのだ。「何かができない(まだできていない)」ということが問題なのではなく、「何かができている」ということが問題なのだ。そして、
 「区体論は、自然数論や実数論を扱える」
 ということに着目すれば、以後の評価は、次のいずれかになる。
 「測度をまだ扱えないだけかもしれない。そうであれば、今後、扱えるように発展させるべきだ」
 「測度を扱うことが根源的にできない可能性もある。その場合には、なぜそうなのかを、考察するべきだ」

 もし後者のようになるとしたら、「だから区体論は駄目だ」という結論になるのではなく、「なぜそうなのかを知りたい」というふうに、非常に興味深い話題が生じる。それが数学者の好奇心というものだ。
 二つの理論があり、どちらもそっくりだが、あるところで、二つの理論が分かれるとしたら、どこにその理由があるのか? それを探りたいと思うのが、数学者の好奇心であろう。逆に言えば、そういう好奇心もなしに、やみくもに「駄目だ、駄目だ」と批判するようでは、玉石混淆のなかで、石を捨てると同時に、玉を捨ててしまう結果になるだろう。そういう否定的な態度では、決して、石の山に埋もれた真実を見出すことはできないだろう。
 数学者に必要なのは、何かを捨てることではなく、石の山のなかから、わずかな玉を探り当てる能力だ。

 (2)
 上の (1) では、二つの可能性を示した。すなわち、こうだ。
 「測度をまだ扱えないだけかもしれない。そうであれば、今後、扱えるように発展させるべきだ」
 「測度を扱うことが根源的にできない可能性もある。その場合には、なぜそうなのかを、考察するべきだ」
 前項では、後者の場合について、多く記述した。ただし、現実には、後者になることはありえず、前者のようになる。すなわち、区体論の上に立つ数学は、測度を扱える。
 ただし、「扱える」ということを具体的に示すには、やや面倒な手続きが必要になる。ここでは、細かなことは示さず、「扱える」という結論だけを述べておこう。
 ただし、「扱える」と言うためには、前提として、次のことが必要となる。
 「集合論の上に立つ数学の概念を、区体論の概念に、翻訳すること」
 一般に、集合論の上に立つ数学の概念は、区体論の概念に翻訳されなくてはならない。そのことは、測度という高度な概念に限らず、自然数という初歩的な概念ですら、当てはまる。
 たとえば、集合論の上に立つ数学では、自然数という概念は、次の二つを満たす。
   1∈2∈3∈4∈5……
   1⊂2⊂3⊂4⊂5……
 ここでは、「基数」という概念と「順序数」という概念が、一体化している。
 一方、区体論では、「基数」という概念と「順序数」という概念は、別々の概念である。「3個」という基数の概念と、「3番目」という順序数の概念は、別々の概念である。「3個のアトム」という概念と、「3番目のアトム」という概念は、別々の概念である。
 このように、集合論の上に立つ数学の概念は、区体論の概念に翻訳されなくてはならない。測度の概念も、またしかり。そして、翻訳されない限り、
 「集合論の上に立つ数学の概念は、区体論の世界では、扱えない」
 という命題は正しい(こともある)が、しかし、そんな命題は、何の意味もないのである。なぜなら、その命題が主張しているのは、「扱えるか扱えないか」ではなくて、「翻訳が済んでいるか済んでいないか」の違いだけであるからだ。


追記


 「区体論では何ができるか?」
 という質問がしばしばなされるので、その質問に答えておこう。
 ごく簡単に言えば、「その質問自体が間違っている」というふうになる。なぜなら、その質問は、次のことに似ているからだ。
 「工場で製品を作るときに、なるべくコストを下げたいと思って努力する。誰もがコストの切り下げのために努力しているときに、別の人が質問する。『コストを下げると、どのくらい性能が向上するんですか?』」
 これはまったく見当違いの質問だろう。なぜなら、ここでは目標は、次のことだからだ。
 「要求される性能水準を満たした上で、コストを切り下げる」
 一方、質問者は、次のことを目標とする。
 「コストはお構いなしに、性能水準を上げる」
 たとえば、ポルシェとか、フェラーリとか、レーシングカーとかなら、コストをお構いなしに、性能を上げることができる。しかし、そんなものがあっても、普通の人には何の意味もない。普通の人が日常的に使うためには、過剰な性能は必要なく、必要十分な性能さえあればいい。あとはコストが低ければいい。
 にもかかわらず、こう言うとする。
 「ただの軽自動車なんて、性能が不足しすぎる。たとえ街乗りでスーパーに買物に行くときでさえ、過剰性能のある十億円のレーシングカーを使うべきだ」
 こういうのはナンセンスだ。そして、それと同じナンセンスを語るのが、上記のような「区体論は性能不足だ」と批判する人々だ。

 はっきり言おう。区体論の狙いは、「性能を増やすこと」ではなく、「性能を減らすこと」である。つまり、「余計な性能を持たないこと」である。と同時に、「必要な性能を持つこと」である。
 具体的には、次のことだ。

 必要なこと :
  ・ 実数の存在を示す。

 余計な性能を持たないこと :
  ・ 濃度が連続濃度よりも必然的に膨張しないようにする。(べき集合公理の否定。)

 一方、現在の集合論は、次のようになる。
  ・ 実数の存在を示せない。( → 発展編
  ・ 濃度が連続濃度よりも必然的に膨張してしまう。(べき集合公理。)

 つまり、現在の集合論は、必要な性能を持たず、かつ、あってはならない性能を持つ。
 では、なぜか? そこにある公理系には、過不足があるからだ。実数の存在を示せないという点では公理が不足しており、一方、連続以上の濃度を結論するという点では余分な公理をもつ。

 この難点を典型的に示す問題が、「選択公理の位置づけ」という問題だ。現在の数学では、選択公理の位置づけが、うまくできていない。次のいずれにしても問題があるからだ。
  ・ 選択公理なし → ベクトル空間の基底など、必要なことを示せない。
  ・ 選択公理あり → 「バナッハ=タルスキーのパラドックス」が生じる。
 こうして、どっちにしても、問題がある。問題を回避する策は、ただ一つ。次のことだ。
  ・ 選択公理を可算濃度に制限する。(可算選択公理)
 しかし、このような制限を加えれば、公理の形が歪む。「複雑なものから簡単な公理を導く」というふうに、変なことになる。どうしても「ご都合主義の変形」にしか見えない。そのせいで、信頼性が薄らぐ。集合論で選択公理を考えると、以上のような問題にぶつかる。
 一方、区体論では、そうではない。区体論では自然に次のことが言える。
 「区体論の世界では、可算選択公理のみが成立する」
 これは、次のことによる。
 「公理8の世界では、濃度は可算までに限られ、そこにおいて、選択公理の内容(公理8)が成立する」
 こうして、可算選択公理のみが成立することが、自然に判明する。(なお、「選択」という言葉は、「点を選択する」という意味でのみ理解する。)

 ( ※ 公理9の世界ではどうか? 公理9の世界では、選択公理の内容は、「点を選択する」のではなく「無限小を選択する」という形でのみ成立する。そのせいで、単純な選択公理とは別の事柄が成立するようになる。なお、公理9の世界では、バナッハ=タルスキーのパラドックスは、不思議でも何でもない。公理9の世界では、すべては伸び縮みするから、バナッハ=タルスキーのパラドックスようなことも起こるのだ。これが一見、パラドックスのように見えるのは、集合論の世界では数を点としてみているからだ。数を点でなくて無限小としてみれば、バナッハ=タルスキーのパラドックスは不思議でも何でもない。)
 まとめて言おう。区体論の狙いは、次のことではない
 「より豊かな結論をもたらせるような、豊かな内容をもつ、最大限の公理系」
 むしろ、その逆に、次のことである
 「矛盾する内容を含まないような、必要最小限の内容をもつ、最小限の公理系」
 ここでは、より豊かなことを結論すればいいのではない。より少ないことを結論すればいいのだ。なぜなら、そのことで、最大限の厳密性を保証できるようになるからだ。また、最大限の自由度をもつことができるようになるからだ。
 この件は、先に「オプション」という言葉で説明した。つまり、数学全体を豊かにする役割は、区体論自体には委ねられず、それぞれの数学空間の公理に委ねられる。(例。群の公理。ベクトルの公理。確率の公理。)
 区体論の役割は、さまざまな数学空間の豊かな成果を自ら導くことではなくて、それらのような成果を導くことのできるような数学空間のために基盤を提供することだ。つまり、「基礎論」となることだ。ここでは、「区体論には何ができるか?」と質問すること自体が無意味だ。(それはいわば、「集合論それ単独では微積分学ができない」と批判するようなもので、見当違いの批判だ。)
 「基礎論」に必要とされるのは、「理論がそれ自体で豊かであること」ではなくて、「理論が必要最小限のものを満たしている」ということだ。豊かさを比較するなら、区体論と集合論を比較するのではなく、区体論の上に成立する数学と、集合論の上に成立する数学とを、比較するべきだ。

 最後に、簡単に対比すると、次のようになる。  他にも、いろいろと違いが出る。たとえば、次のように。
 「区体論の解析学は、必然的に無限小解析になるが、集合論の解析学は、必然的に点実数論の解析(点解析)になる」
 こういうふうに、違いが生じる。

 以上をまとめて一言で言えば、こうなる。
 「区体論の数学と、集合論の数学とは、異なる」
 それはいわば、軽自動車とレーシングカーのような違いだ。軽自動車は普通の用途のすべてに役立つが、レースには出場できない。レーシングカーは普通の用途にはまったく使いにくいが、レースには出場できる。こういうふうに、両者にはまったく違う差がある。一方は実用性を求め、一方は極端な限界を求める。ここにおいて、後者の基準ばかりを取ると、次のような結論が出る。
 「レーシングカーさえあれば、軽自動車なんかいらない。普通の自動車もいらない。この世に必要なのはレーシングカーだけだ。自動車が必要な人は、十億円を払って、レーシングカーを買うべし。それ以外のすべての自動車を販売停止にしてしまえ。なぜなら、それらは、レーシングカーよりも性能が劣るからだ」
 こういうふうに主張するのと同じように主張する人々が、数学の世界にもいる。それが、「区体論は集合論よりも性能で劣る」と述べる人々だ。彼らは、区体論が何を狙っているかを、理解できないのである。

( ※ 言わずもがなだが、説明しておこう。区体論が狙っているものとは、「厳密性」である。そこでは「完全性」や「無矛盾性」こそが何よりも大切となる。そして、そのことは、部分的にはすでに判明している。一方、集合論では、五里霧中である。したがって、たとえ集合論と区体論がほとんど等価だとしても、「完全性」や「無矛盾性」がいくらか達成されているという点で、区体論は数学に対してはっきりとした基盤を与えることになる。比喩的に言えば、建物の土台を与えることになる。それに対して、「この建物はどのくらいの広さがあるか、どのくらいの部屋数があるか」という実用性を重視する人々もいる。しかし、そういう人々の立場は、普通の数学の立場であって、数学基礎論の立場ではない。数学基礎論というものは、豊かさよりも確実さを求めるのだ。数学基礎論に「豊かさ」を求めるとしたら、その人は数学基礎論というもの自体をよく理解できていないことになる。それはいわば、工学の技術者が数学を評して、「数学でいくら利益が出るの? 利益の出ない学問なんて無意味だよ」と評するのに似ている。)

  ──

 なお、集合論と区体論との違いはいろいろとあるが、最も顕著な違いを挙げるなら、次のことだろう。
 「集合論では、自然数は実数の一部としてあるが、区体論では、自然数と実数は別々の数学空間に属する」
 区体論では、自然数は、公理8の数学空間に属し、実数は、公理9の数学空間に属する。( 自然数の 1 と、実数の 1.0000...... とは違う、ということ。)
 このように、両者は別々の空間に属する。すると、物事の見通しが非常によくなる。たとえば、次のような事例がある。

 (1) 物理学
 物理学では、「古典的粒子は連続量のエネルギーをもつが、量子は離散的な(とびとびの値の)エネルギーをもつ」と言われる。そこで「なぜ量子は中間の値を取らないのか?」という疑問が生じる。しかし、区体論の発想を取れば、そういう疑問は生じない。「量子というものは、実数よりも自然数の数学空間に属するのだ」という発想を取ればいい。そうすれば、「なぜ途中の値を取らないのか?」という疑問が生じることもない。(簡単に言えば、2と3の間には、途中の自然数はないからだ。途中の値を考えるというのは、実数の発想にこだわっているからで、それは、集合論ふうの数学の発想にこだわっているからだ。)

 (2) 選択公理
 数学基礎論では、「選択公理は成立するか否か」という疑問が生じる。しかしこれも、「自然数の数学空間と、実数の数学空間では、別々の公理が成立する」と見なせば、何も疑問は起こらない。自然数の数学空間では可算選択公理が成立し、実数の数学空間ではまた別の形の公理が成立する。そう解釈すればいい。「選択公理」という一つの公理が自然数と実数の双方の世界で成立するのではない。……そう理解すれば、選択公理の位置づけも、はっきりとする。

 以上の (1)(2) のように、「自然数と実数は別々の数学空間に属する」という発想を取ることで、物事の見通しが非常によくなる。これは区体論の美点だ。区体論の発想を取れば、「選択公理はどう位置づけられるか?」というような疑問について、あれこれと頭を悩まさずに済むようになるのだ。

  ──

 以上のことを理解すれば、区体論が何を狙っているかも明らかになるだろう。
 区体論は、「実数の存在性」や「選択公理の位置づけ」に対して、はっきりとした答えを出す。そのことで、数学の基礎をはっきりと構築する。数学という学問体系の基盤をしっかりと整備する。……こういうことが、区体論の狙いだ。
 一方、集合論では、それができていない。「実数の存在性」は不明のままだし、「選択公理の位置づけ」もできていない。数学の基盤を整備することができていない。(それは「今のところできない」という意味ではなくて、「根源的に絶対できない」という意味だ。そのことが区体論からわかる。集合論にはもともとその能力が欠落しているのだ。)

 ただし、集合論では、まったく別のことができる。それは「連続を越える超限基数・超限順序数を扱う」ということだ。そして「 V=L 」というような話題を扱う。……しかしそれは、「数学の基盤を整備すること」とは全然別のことだ。それは「数学基礎論」の話題というよりは、「濃度理論」の話題である。
 実際、その話題は、区体論においては、「区体論の上に成立する濃度理論の一部」というふうに扱われる。区体論の上には、解析学や、群論や、確率論など、さまざまな一般数学が構築されるが、それらのうちの一つとして、濃度理論もある。
 しかしながら、集合論では、濃度理論が集合論の一部に組み込まれてしまっている。その分、「集合論は区体論よりも強力だ」と言えるが、それは、便利なことというよりは、不便なことなのだ。それはいわば、「数学基礎の一部に幾何学が取り込まれてしまって、幾何学だけを分離することができない」(代数学を純粋に構築することができない)というようなものだ。つまり、基礎理論があまりにも強力であることは、余計なものを含むという点で、不便なのだ。

 区体論は、数学基礎論の理論であり、一般数学の理論ではない。なのに、「役立つか否か」という一般数学の評価基準を取ることは、評価の仕方を誤っている、と言える。「超限順序数を扱えるから集合論は役立つ」というような主張はナンセンスである。むしろ「(濃度理論という)本来外部にあるべき理論を内部に取り込んでしまった集合論は、数学基礎論としては歪んでいる」と見なす方が妥当だろう。
 そういうわけで、「あれができる、これができる」というふうに、「役立つ」という評価基準で区体論を評価する人は、数学基礎論というものを根本的に誤解していることになる。その発想は数学基礎論の発想ではない。
( ※ 彼らはたぶん、一般数学から下に降りてきて、「役立つ理論としての数学基礎論」というものを求めるのだろう。しかし、数学基礎論というものはそもそも、「ゼロから物事を構築するための理論」としてあり、「論理学の上に構築されるもの」として位置づけられる。上から探るべきものではなくて、下から着実につくりあげていくものなのだ。それが数学基礎論の正しい位置づけだ。)

  ──

 なお、集合論と区体論について、「どちらが正しいか」とか、「どちらが役立つか」とか、そういう問いかけをするのは、ナンセンスである。むしろ、ここでは、「新たな世界観が提供された」と見なすべきだ。
 似た例で言えば、「ユークリッド幾何学」という体系がある状況で、「非ユークリッド幾何学」という体系が導入されたようなものだ。両者は異なる体系である。そのどちらもが成立する。ここでは、「どちらが正しいか」とか、「どちらが役立つか」とか、そういう問いかけをするのは、ナンセンスである。むしろ、ここでは、「新たな世界観が提供された」と見なすべきだ。
 いずれにせよ、そういう複数の世界観があるとき、そのどちらを取るかは、任意である。一般に、現実世界に応じて、便利な方を取ればいい。
 ただし、どちらが現実に適合しているかを考えるのは、物理学者などの問題だ。数学者としては、「どちらが役立つか」というようなことを考えずに、単に「その理論は数学空間として成立するか」ということだけを研究すればいい。それが「数学の本質は自由さにある」という言葉の意味だ。(……しかしながら、多くの人々が、区体論に接したとき、「数学空間として成立するか」よりも、「役立つか」ということばかりを考える。彼らはあまりにも発想が不自由であるのだろう。)


まとめ


 最後に、まとめふうに述べておこう。
 「区体論は何にもできない(役に立たない)」
 という批判がある。しかし、これは、見当違いの批判であろう。それは「数学基礎論とは何か」ということを根本的に勘違いした批判だ。「貧しければ貧しいほどいい」という数学基礎論に対して、「豊かならば豊かなほどいい」という一般数学の立場を当てはめるものだ。
 仮に、このような批判が成立するとしたら、同様にして、「集合論もまた何もできない」というふうに批判される。実際、集合論は、それ自体では何もできない。解析学も、群論も、確率論も、どれ一つとしてできない。だから、「集合論それ自体では何もできない」ということになる。とはいえ、それは集合論への批判とはならない。
 そもそも、集合論は、それ自体では何もできないからこそ、どのような公理系をも、そこに自由に追加することができるのだ。集合論は、それ自体では何もできないからこそ、「集合論 プラス アルファ」は、どのようなことでもできるようになるのだ。たとえば、「集合論プラス微積分」とか、「集合論プラス群論」とか、「集合論プラス確率論」とか、そういうふうに、いろいろと自由に公理系を追加できる。集合論は、それ自体では何もできないからこそ、かえって自由に広範になれるのだ。集合論は、豊かでなく貧しいからこそ、かえって有益なのだ。

 しかし、である。集合論にも、たった一つ、例外がある。それは「濃度」だ。集合論は、それ自体のうちに、濃度の理論を含む。たとえば、集合論のうちに、可算濃度をつくる公理や、連続濃度を作る公理をもつ。(正則性公理やべき集合公理。)……そのせいで、集合論は、「濃度」についてだけは、多くのことを結論できる。そして、そういうふうに豊かであるがゆえに、かえって自由さを失う。たとえば、「有限の範囲だけ」というように限定された体系を作る自由さがない。(せいぜい部分空間として定義できるだけだ。)
 その点、区体論は違う。区体論は、それ自体のうちに、「濃度」についての公理を含まない。区体論において、濃度を記述するためには、「濃度」を定めるための公理系が別に必要となる。特に、自然数をつくるためには、そのための公理(ペアノ公理)が別に必要となる。……こうして、区体論においては、「濃度」の公理は体系外に押しやられる。かくて、区体論は、それ自体は貧弱になるが、そのことで、かえって自由さをひろげる。たとえば「区体論プラス有限濃度」というような体系を構築する自由さをもつ。そのおかげで、この小さな体系において無矛盾性を証明できるようになる。一方では、「区体論プラス無限濃度」という形を取れば、従来の理論と比べても少しも貧弱にはならないようにすることができる。(どのような無限濃度の公理系を取るか、ということで決まる。)

 というわけで、「区体論は豊かでない、役に立たない」というような批判は、物事を根本的に誤解していることになる。なぜなら、区体論はそもそも、「最も貧弱な理論」であることをめざしたからだ。(ただし、必要最小限のことを満たすという条件のもとで。)
 区体論は、最も禁欲的であることをめざしている。比喩的に言えば、「無駄な脂肪分をもたずに筋肉質なボクサーのような体格」をめざしている。なのに、それに対して、「こいつにはぜい肉がないから駄目だ。ちっとも豊かではない」というような批判をする人もいる。しかし、それはそもそも根本的に狂った批判だ。
 豊かであるか否かを考えるのは、数学基礎論ではなく、数学基礎論の上に立つ一般数学における立場だ。そういう批判は、数学基礎論というものを、根本的に誤解しているのである。

 「区体論は役立たない」と批判する人のために、「数学とは何か」を教えておこう。
 数学というものは、数学基礎論の上に構築される公理的空間である。たとえば、集合論の上に、群論や確率論や四則演算や解析学などの数学空間が構築される。こういうふうに二段構えの体系となっている。
 ここで、次のような批判をする人もいるだろう。
 「集合論はそれ自体では群論を構築できないから、集合論は役立たずだ」
 「集合論はそれ自体では確率論を構築できないから、集合論は役立たずだ」
 「集合論はそれ自体では四則演算を構築できないから、集合論は役立たずだ」
 「集合論はそれ自体では解析学を構築できないから、集合論は役立たずだ」
 しかし、このような批判は、ナンセンスである。集合論は、それ自体では、群論や確率論や四則演算や解析学などを構築しない。かわりに、これらの数学空間を構築するための、基礎を提出する。
 区体論もまた同様だ。区体論それ自体では、群論や確率論や四則演算や解析学などの数学空間が構築されない。また、集合論と違って、濃度の理論も構築されない。
 では、区体論は、群論や確率論や四則演算や解析学などを扱えないのか? また、濃度を扱えないのか? もちろん、区体論それ自体では、これらを構築できない。ただし、区体論の上に、別の公理的空間を構築することで、群論や確率論や四則演算や解析学などを扱えるようになるし、また、濃度を扱えるようになる。
 つまり、濃度の理論は、集合論では基礎論の内部に含まれているのに対し、区体論では区体論の上に追い出されているのだ。この意味で、「区体論は禁欲的」なのである。それに対して、集合論は、濃度の理論を基礎論の内に含む。その分、豊かな結果を生み出すことができるが、その分、自由度を失う。
 たとえば、集合論のうちに、四則演算の公理系を取り込むことができる。そうすれば、集合論はそれだけ豊かな体系になるが、その分、自由度を失う。(たとえば、四則演算の成立しない空間を構築できない。x mod y ふうの剰余類の理論を構築できない。)
 数学全体ができる限り自由であるためには、数学基礎論はできる限り禁欲的であるべきなのだ。換言すれば、次のように言える。
 「数学全体が豊かである度合いが高いためには、数学基礎論は豊かである度合いが低い方がいい」
 なるほど、「豊かだ」とか「役に立つ」とかの概念は、有益だ。しかし、その概念が適用されるのは、「数学全体」であって、「数学基礎論」ではないのだ。数学基礎論が豊かになればなるほど、数学全体はかえって貧しくなってしまう。たとえば、区体論では、濃度の公理を含まないがゆえに、有限の空間も無限の空間も、どちらも構築できる。しかるに、集合論では、無限公理を定理として含む(正則性公理から導き出される)がゆえに、有限の空間というものを単独で構築することができない。したがって、有限の空間の無矛盾性すら、証明できない。(仮に証明するとすれば、「集合論が無矛盾であれば」という仮定を満たされた上でのことだ。そんな仮定は無意味である。)
 繰り返す。数学全体が豊かである度合いが高いためには、数学基礎論は豊かである度合いが低い方がいい。このことを噛みしめてほしい。そして、そのことを理解すれば、「区体論は役に立たない」というような批判が、以下にマトはずれであるか、はっきり理解できるだろう。

 ──

 【 補足 】
 区体論は、豊かになろうとするのではなく、貧しくなろうとする。では、なぜか? これについて、もう少し詳しく説明しておこう。(……このことは、普通の数学者には理解しにくいと思えるからだ。数学基礎論の研究者にとっては、ほとんど自明だろうが。)
 ここで「禁欲的」という言葉は、「厳密」あるいは、「無矛盾」ということに等しい。
 区体論(公理8)は、無限公理を体系から排除することで、有限の範囲で無矛盾性をあっさり証明できる。これに無限公理を加えて、無矛盾性を証明することも、あまり難しくなさそうだ。……このことによって、「自然数の範囲内での無矛盾性」までは容易に到達できる。また、公理8でなく公理9を加えて、「実数の範囲内での無矛盾性」をも、比較的容易に到達できるだろう。となると、通常の範囲内では、数学の無矛盾性を示すことができる。かくて、数学というものを「無矛盾なもの」「厳密なもの」として、安心して取り扱うことができる。
 一方、集合論は、そうではない。集合論では、「無矛盾性」は、まったく証明されない。特に、「自然数の範囲内での無矛盾性」は、原理的に証明は困難だ。なぜなら、次のことがあるからだ。
  (1) 「自然数の範囲内での無矛盾性」が証明されたとする。
  (2) べき集合公理により、実数濃度の無矛盾性も成立して当然だ。
  (3) べき集合公理により、さらに高い濃度の無矛盾性も成立して当然だ。
 こういうふうに、どんどん高い濃度の無矛盾性も必然となる。これは、集合論の性質から来る、当然の要請だ。区体論ならば、濃度がどんどん膨張していくことはない。だが、集合論ならば、濃度がどんどん膨張していくので、「自然数濃度まで」とか「実数の濃度まで」とかいうふうに、濃度を限定することができない。つまり、「自然数の濃度まで」というふうに範囲を限定できないから、「自然数の範囲でだけならば無矛盾」というふうに示すことが困難だ。集合論で無矛盾性を示すならば、次のいずれかになる。
   ・ 有限の範囲だけでの無矛盾性。
   ・ 自然数や実数をはるかに超えて、あらゆる無限での無矛盾性。
 このいずれかになる。しかしながら、前者(有限まで)では、ほとんど意味がない。また、後者(実数濃度をはるかに超えた範囲での無矛盾性)は、強すぎて、およそ証明はできそうにない。そもそも、証明できたとしても、普通の数学(解析学など)にとってはまったく無用のことだ。
( ※ 実数を超える巨大な濃度は、解析学にとっては不要だ。また、われわれのいる宇宙にも不要だ。そのような濃度は、われわれのいる宇宙とは別の、どこかの別の宇宙では成立するかもしれないが、われわれのいる宇宙では成立し得ない。多すぎてはみ出てしまうからだ。)

 結局、集合論では、「自然数の範囲での無矛盾性」や「実数の範囲での無矛盾性」は、およそ証明できない。したがって、集合論を取る限りは、「安心して扱える範囲」というものは、ごく限定される。
 集合論で扱える範囲は、せいぜい有限の範囲でしかない。しかも、そこでは、「正則性公理は使えない」という不完全な形の集合論となる。(なぜなら、正則性公理を使えるとしたら、自然数が導入されてしまうので、有限という前提と矛盾するから。)
 だから、「正則性公理を含む集合論」では、安心して使える範囲は、皆無である。要するに、集合論は、非常に豊かなことを結論できるのだが、そこで「絶対に正しい」と言える範囲は、皆無なのだ。そのすべては、ある日突然、「すべて間違いでした」と証明されてしまう危険がある。……だからこそ、数学基礎論においては、「無矛盾性」を突き詰めることが必要なのだ。
 普通の数学ならば、基礎の正しさはあらかじめ前提とされている。たとえば、「集合論に基づく」とか、「区体論に基づく」とかいう形で、基礎の正しさを別の理論に委ねることができる。一方、集合論や区体論は、そういうことができない。自らの基礎の正しさを、別の理論に委ねることができない。「別の理論による保証」を求めることはできず、自らによって自らの基礎を保証しなくてはならない。しかるに、集合論は、それができないのだ。ゆえに、集合論は、いくら豊かなことを結論しても、それが正しいという保証は皆無である。
 集合論に似ているのは、「ホラ吹き男爵」である。ホラ吹き男爵は、非常に豊かである。彼は地球で最大の富を持ち、空を飛び、海を越え、宇宙に飛び出すこともできる。彼はどんなこともできる。彼にはあらゆる能力がある。しかし、彼の語ったことが真実であるという保証は、皆無である。そのすべては、ただのホラであるかもしれない。「彼の語ったことはすべてホラであった」と、ある日突然、証明されてしまうかもしれない。……結局、「正しいと保証されていない言説」など、いくら豊かであっても、無意味なのだ。「オレはこんなに豊かなことを結論できるぞ」と、いくらホラ吹き男爵が主張しても、その信用度はゼロなのだ。
 だからこそ、区体論は、別の目的をめざした。「豊かであること」ではなく、「確実であること」を。比喩的に言えば、「この世のすべての富を与える」というような非現実的なホラではなく、まさしく手にすることのできる現実の金塊を。空虚な言葉は無意味だが、現実の金塊は意味がある。そういうふうに確実なものをめざしたのが、区体論だ。区体論にとって何よりも大切なのは、豊かさではなく、確実さなのだ。


         *        *        *        *        *


 【 打ち明け話 】
 打ち明け話を言おう。私が区体論を探求した最大の動機は、「集合論による数学は美しくない」ということだ。「美しくない」ということは「真実である保証がない」ということだ。
 あらゆる理論の基礎である理論は、もっと美しくあるべきだし、もっと厳密であるべきだ。現在の集合論は、たしかに、豊かさの点ではとても豊かだが、厳密さや美しさの点では、あまりにも不足している、と感じられた。
 これは、私なりの感想だから、他人に強制するつもりはない。「現在の集合論はとても美しい理論だ」と思って、「厳密さも十分に足りている」と思うのであれば、それは、その人の判断だから、私としては反論しない。ただ、私の個人的な感想としては、現在の集合論は美しさと厳密さという点で不足していると感じられた。それが最初の動機となる。
 このような感じ方は、「どれだけ役に立つか」「どれだけ豊かになるか」という発想とは、正反対のものだ。この感じ方を、他人に強制するつもりはないが、それなりに理解していただければ幸いである。


オマケ


 ※ オマケとしての話。特に読まなくてもよい。
   連続体仮設についての話。

 区体論を取ると、連続体仮設の意味もはっきりとする。
 連続体仮設については、集合論において、次の結論がすでに出ている。
 「連続体仮設は、集合論とは独立である。肯定も否定もできない。可算と連続の中間濃度は、存在するとも存在しないとも言えない」
 つまり、中間濃度は、存在しても存在しなくてもいい。そのどちらを主張する公理を導入しても構わない。どっちにしても集合論とは無矛盾である。── そういうことがすでに証明されている。
 しかし、これでは、話は片付かない。次の問題が残る。
 「中間濃度が存在してもいいというのなら、実際にわかりやすい形でそのような集合を見せてくれ」(特殊なモデル論的な方法ではなくて、素人にもわかるような形で見せてくれ)
 「中間濃度が存在してもいいというのなら、なぜ普通の数学空間にそれが現れないのか? そのわけを説明してくれ」

 これらの問題に、集合論は答えられない。しかしながら、区体論の立場からは、次のように答えることができる。
 「中間濃度とは、公理8と公理9の合体した雑種的な空間(混在的な空間)である。すなわち、『なめらかな連続的な空間のなかに、点状の点がたくさん浮かんでいる』という数学空間である」( → 発展編「混在的な空間」)
 「ただし、そのような数学空間は、普通の方法では作り出すことができない。これは、公理8の成立する世界でもなく、公理9の成立する世界でもなく、公理8と公理9がチャンポンでまだら状成立する世界だ。公理があちこちでまだら状に成立する世界というのは、あまりにも特殊であり、普通の数学空間にはならない。だから、混在的な空間は、普通の数学世界には現れない」
 
 少し補足しておこう。
 最後の「普通の数学世界には現れない」ということは、比喩的にわかる。たとえば、ユークリッド空間も、非ユークリッド空間も、どちらも普通の数学空間である。それらにおいては「平行線公理が成立する」「平行線公理の逆が成立する」という形で、数学空間が規定される。しかしながら、「部分的にユークリッド空間と非ユークリッド空間とがまだら状に混じっている混在的な空間」というのは、普通の数学に現れない。そういうものをあえて作り出すことは可能ではあるが、部分的に異なる公理が入り組んでいるような数学空間というものは、普通の仕方では作り出されないのだ。
 そして、同様のことが、この件(中間濃度の空間の件)にも当てはまる。そういうものをあえて作り出すことは可能ではあるが、それは、部分的に異なる公理が入り組んでいるような数学空間であるがゆえに、普通の仕方では作り出されないのだ。だから、通常の数学世界には、現れない。

 なお、参考のために、もうちょっと考えておこう。このような中間濃度の空間があるとして、そこにある点は、どのくらいたくさんあるだろうか? 可算か? もっと多くか? 
 もし可算であれば、それらの可算個の点をすべて除去することができるだろう。(可算選択公理によってすべて選択してから除去すればいい。)そのあと、残りの部分だけを取れば、公理9だけの成立する空間となる。……この場合は、話は簡単だ。
 問題は、可算でない場合だ。点の濃度が、可算を越えた濃度だとしたら、どうなるか? 可算選択公理ですべて取ろうとしても、取り尽くすことはできない。圧倒的に多くの点が残ることになる。……そして、そのような空間が、まさしく「中間濃度」の空間なのだろう。そこにおいては、可算を超える数の点が存在するのだが、それらを取り尽くすことはできない。もちろん、決定することもできない。(決定できるのは有理数と同じ濃度まで。つまり、可算の濃度まで。)
 こうして、「たくさんの点があるのに、決定できないままでいる」という、不思議な空間が想定された。それが「中間濃度」の空間である。
 
 こうして、連続体仮設というものの位置づけは、はっきりしたことになる。これは、区体論から得られる、独自の結論である。
( ※ 集合論では、そのことはわからない。というのは、集合論では、実数すら「存在性」を言えないからだ。集合論では、実数すらも正体がはっきりしないのに、中間濃度の正体がはっきりするはずがない。区体論では、まず、実数の正体をはっきりさせて、「点ではなく無限小」という形で定義した。その後、ようやく、「無限小と点の混在する空間」という形で、中間濃度が定義される。こういう順序がある。集合論では、実数さえもよくわかっていないから、連続体仮設についてもよくわからないでいるわけだ。)





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