新まとめ



 区体論とはどういうものかを、新たに整理してまとめる。
 ( ※ 数学の専門家向けに簡単に記す。初心者向けの解説はしない。)


 狙い


 区体論の狙いは、数学の基礎を構築することだ。その意味では、集合論の狙いと、基本的には同じである。
 
 ただし、基本は同じでも、その先は違う。
 現代の集合論は、数学の基礎を構築することを目的としていない。かわりに、「濃度についての理論」となってしまっている。その目的は、
 「濃度について豊かな成果を生み出す体系」
 を構築することだ。
 しかしながら、「豊かな成果を生み出す体系」というのは、基礎理論の役割ではなく、応用理論の役割である。
  ・ 微分について豊かな成果を出す
  ・ 幾何学について豊かな成果を出す

 こういう応用理論と同様である。そこでは「豊かな成果」を出すことが体系としては第1の狙いとなる。
 この意味で、集合論とは、
 「濃度について豊かな成果を出す応用理論」
 なのである。そこでは、
 「数学の基礎を構築すること」
 は狙いとはなっていない。


 数学の基礎


 では、数学の基礎とは、何か? それは、集合論を学んだ人には忘却の彼方になってしまっただろうが、論理学を学んだばかりの人ならばすぐにわかるだろう。次のことだ。
  ・ 体系の無矛盾性
  ・ 体系の完全性

 この二つだ。つまり、「無矛盾性」と「完全性」だ。この二つがあってこそ、その理論は基礎理論となる。そして、その基礎理論が構築された上に、応用理論が構築される。

 では、集合論は? 無矛盾性も完全性も、証明されていない。証明される見込みさえない。ゲーデルの不完全性定理に従えば、集合論の完全性を証明することはできない。
 つまり、集合論は、「基礎理論にはなれないこと」(無矛盾性も完全性も証明不可能であること)がすでに証明されているのである。
 そこで、「無矛盾性」と「完全性」をもつ体系(数学の基礎を構築できる体系)を求めるのであれば、集合論以外に求めるしかない。つまり、新たに別の理論を必要とする。
( ※ そのような別の理論を見出させなければ、人類は「数学の基礎」
   を入手できないまま、不確実な理論しか得られない。



 区体論


 そこで新たに提案されたのが、区体論だ。
 区体論では、無矛盾性と完全性が、ある程度、証明されている。すべてが完全に証明されたというわけではないのだが、核心部分が証明されている。一番大事な核心が証明されたという点で、非常に重要な意義を持つ。
 では、どうやって、無矛盾性と完全性を手に入れたのか?


 濃度の公理の分離


 最も基本的なことは、「濃度の公理を持たない」ということだ。
 これは、「濃度の公理をもてない」ということではなくて、「あとでオプションとして追加される」ということだ。
 とりあえずは、濃度の公理なしで、空間を構築する。そこにおいて無矛盾性と完全性を手に入れる。こうして体系の核心部分について無矛盾性と完全性を手に入れたら、そこにオプションとしての濃度の公理を追加する。

 これを換言すれば、こうなる。
 「濃度の理論は、それ自体は基礎論ではなくて、基礎論の上に成立する別の応用的な空間である」

 実際、濃度の理論なしで、いくつかの数学空間を構築できる。それは有限の数学空間だ。たとえば、グー・チョキ・パーという三つの構成要素を持つ数学空間を構築できる。ここでは、無限という量は必要ないから、濃度の公理などは必要ない。あくまで有限の範囲で数学空間を構築できる。

 こうして、濃度の公理を別仕立てとすることで、無矛盾性と完全性のある基礎理論を構築できる。
 

 可算区体論


 以上のように構築された基礎理論を「可算区体論」または「仮表示形の区体論」と呼ぶ。

 可算区体論それ自体は、無矛盾性と完全性がある。特に無矛盾性については、「アトムが一つ」というモデルを取ることで、簡単に無矛盾性が証明できる。完全性については、数学基礎論の深い知識が必要なので、ここでは省略する。

 可算区体論には、ペアノ公理を追加することができる。ペアノ公理を追加された可算区体論は、可算濃度の数学空間を構築できる。

 「可算区体論 と ペアノ公理」という組み合わせでは、無矛盾性と完全性は証明されていない。この件は、後述する。

 なお、アトムの個数が二つのときには、無矛盾性は簡単に証明される。
 アトムの個数が n個のときに無矛盾性があれば、アトムの個数が n+1個のときにも無矛盾性があるとわかる。
 このことから、任意の数(ただし有限個)のアトムのある空間について、無矛盾性が判明する。
 ただし、アトムの数が可算になると、同様のことは言いにくい。これは別の課題だ。


 公理系


 区体論の公理系は、どのようなものか? 全体としては、素朴集合論に似ている。が、それよりは、ブール代数や束論などに似ている。

 基本としては、無定義語の記号 ⊂ を用いて、
   X⊂Y
 のように書く。この記号は包含を意味する。(集合論の場合と同様。)

 この記号を用いて公理がいくつか導入される。
 たとえば、次の公理がある。

 《 推移律 》
     (∀X)(∀Y)(∀Z)
        X⊂Y ∧ Y⊂Z ⇒ X⊂Z

 このような公理は、素朴集合論の発想を取れば、どれもなじみ深いものだ。
   X⊂Y
 のような式に対して、次のような公理がある。
  ・ 反射律  X⊂X
  ・ 推移律  (上記)
  ・ 空区体 φ (空集合と同様)の存在
  ・ 共通部分 X∩Y の存在
  ・ 和区体  X∪Y の存在
  ・ 補区体  Yc の存在
    ここで X に対して X = Y∪Yc


 アトム


 区体論では、ブール代数の公理系にはない、際立って特徴的な公理がある。それは、「アトムの公理」である。それは次のことを意味する。
 「それ以上分割不可能な区体が存在する」
 これはつまり、幾何学的には「点」の存在である。
 アトム a は、次の式で示される。
  (∀X)[ X⊂a ⇒ X=φ  ∨ X=a]
 つまり a に含まれるものは、 空単位 φ か、 そのアトム自身か、どちらかである。そういう a が存在するのだ。そのようなものとして、アトム a の性質が規定される。

 このアトムは、集合論の「集合の要素」とは、性質が著しく異なる。次の点で。
 「アトムと、一般の区体は、同じレベルにある」
 ひるがえって、集合論では「集合と要素」は、レベルが異なる。集合の要素に対して、集合のレベルは1段階高い。たとえば、
    a∈A
 の場合には、 a に対して A は1段階高い。具体的に言えば、その段階は、カッコの個数である。
 たとえば、
    a∈{a}
 と書けるが、ここでは、 a と {a} とは別のものであるし、別のレベルにある。
 一方、区体論では、このようなレベルはない。また、レベル差をもたらすカッコも存在しない。
 具体的に言えば、Aに含まれるアトムは、
    a@A
 と書かれるが、ここで、右辺に a そのものを置くことができて、
    a@a
 と書くことが可能である。どちらも同じレベルであるからだ。
 ( ※ これは、「アトム a はそれ自体に含まれる」と読むことができる。反射律から与えられる。)


 自然数の構成


 上記の公理系による体系があれば、そこで数学空間を構築できる。それが可算区体論だ。
 可算区体論にペアノ公理を追加すると、濃度の公理を含むことによって、自然数を構築できる。

 自然数論を含む一階述語論理の体系は、ゲーデルの不完全性定理の対象となる。その意味で、この段階での無矛盾や完全性は、期待できない。
 しかしながら、この段階の直前では、自然数論を含まないがゆえに、ゲーデルの不完全性定理の対象とはならない。それゆえ、無矛盾や完全性は期待できる。そして、実際、それは証明可能である。(部分的には証明済みである。)
 その意味で、区体論の世界は、理論的に可能な最大限に無矛盾や完全性を備えることが可能となっている。そして、それというのも、理論を段階的に構築していくことで、自然数論を含まないレベルで基礎理論を構築していったからだ。


 実数論


 自然数論のあとで、実数論を構築する。
 ここでは、集合論の方法とは、著しく異なる方法を取る。

 集合論では、次の方法を取った。
  ・ 空間全体を特に明示的に規定しない。
  ・ 空間のなかで自然数と実数がともに構築される。


 区体論では、次の方法を取る。
  ・ 個別の空間全体を明示的に規定する。
  ・ 自然数の空間全体 Ω と 実数全体の空間 Θ がある。
  ・ それぞれは別の空間である。
  ・ そのいずれも空間全体が明示的に規定される。
  ・ それぞれの空間は別の公理系を持つ。


 最後の点が重要だ。
 ここで、「別の公理系」というのは、「全く別の公理系」という意味ではない。「公理1〜公理7」までは共通する。その意味で、ブール代数的(集合論的)な部分は共通する。

 異なるのは、アトムの部分だ。次のような差が生じる。
  ・ 可算区体論 …… 公理8が成立する。
  ・ 連続区体論 …… 公理9が成立する。


 それそれの公理は、次のことを意味する。
  ・ どの区体にも必ずアトムが一つ以上含まれる。
  ・ どの区体にもアトムは一つも含まれない。


 ここで、公理8と公理9は、背反的である。ゆえに、体系としては、二者択一であり、どちらか一方しか取れない。
 そして、公理8を取る体系が「可算区体論」の空間であり、公理8を取る体系が「連続区体論」の空間である。

 イメージ的には、次のように理解するといい。
  ・ 可算区体論 …… 点の集まり
  ・ 連続区体論 …… 液体的な(なめらかな)空間


 数学的には、次の事例で考えるといい。
  ・ 可算区体論 …… 点や物の個数を考える。(自然数)
  ・ 連続区体論 …… 座標空間の位置を考える。(実数)



 公理9の導入


 実数の構築は、どうするか? 
 まずは、可算区体論によって、自然数を構築することが必要である。こうして可算区体論の空間 Ω を導入する。
 その上で、連続区体論の空間 Θ を導入する。そこでは、公理9が成立する。公理9は、次のことを意味する。
 「 どの区体にも、それより真に小さい部分が含まれる」
 たとえば X という区体には、それよりも真に小さい区体 Y が含まれる。
 これに対して、公理7 を適用すれば、
   X = Y∪Yc
 が成立するから、結果的に、次のことが言える。
 「どの区体も、それよりも真に小さい二つの部分に分割できる」

( ※ なお、「真に小さい部分」や「その補区体」は、いずれもアトムではない。仮にどれかがアトムだったとすれば、そのアトムはもはや真に小さい部分を含まなくなる。これは公理9に反する。)


 実数の構築


 上の
   X = Y∪Yc
 を、次のように書くことができる。
   X0 = X00∪X01
 右上の添字に着目すると、次のように分岐している。

      00
   0 <
      01

 この 00 に対して同様のことをすれば、次のようになる。


          000
      00 < 001
   0 <    
      01 < 010
          011

 以下、同様にすることで、2のn乗の分割が可能である。n段階を経ることで、n桁の文字列を得ることができる。たとえば、
   00101011100001100101110
 というような。
 このような文字列の全体は、2進法の実数全体に等しい。

 したがって、公理9によって2のn乗分割された区体たちの全体は、実数全体に等しいと見なすことができる。


 準関数


 公理9において、2のn乗分割をするためには、何が必要か?
 第1に、自然数の空間が必要だ。それによって、有限数のnにおけるn乗分割を、無限桁(可算桁)の数字列に拡張することができる。
 第2に、任意の区体を2分割する手段が必要だ。ここで、二つのうちの一方を取れれば、他方は公理7によって取れる。だから、二つのうちの一方だけを取ればいい。
 このように一方だけを取る機能として、「準関数」というものを導入する。これは、「関数」に似て非なるものだ。概念は面倒なので、ここでは説明しない。( 別のページの 説明解説 を読んでほしい。)
 「準関数」は、数学的には、選択公理における「選択関数」によく似ている。実質的にはほぼ同じものだと考えていい。そこで、ここでは「選択準関数」と呼ぶことにしよう。

 ただし、違いもある。
 集合論の選択関数は、無限に多くの要素のなかから、一つの要素を取ることができる。その意味で、かなり強い力を持つ。
 区体論の選択準関数(公理9)は、二つに分割する力しか持たない。もっと小さな部分を求めるなら、「二つに分割する」という操作を無限回も繰り返す必要がある。しかしそれでも、「無限小」を得ることができるだけで、「点」を得ることはできない。(点はもともと含まれないからだ。)
 このように、「選択関数」と「選択準関数」は、似ているが、その力がかなり違う。「選択準関数」はずっと力が弱いのである。

 一方、可算区体論では、公理8によってアトムを得ることができるが、これも選択公理によく似ている。これもまた区体論の選択準関数である。ただし、公理8における準関数だ。
 公理8の準関数は α と書かれる。
 公理9の準関数は β と書かれる。

 可算区体論の範囲では、自然数が対象となる。そこでは、可算個のアトムのなかから、 α によって一つのアトムを取ることができる。この場合は、集合論の選択関数とまったく同様の働きを持つ。

 連続区体論の範囲では、実数数が対象となる。そこでは、連続個の無限小のなかから、 β によって一つの無限小を取ることができる。ただしそのためには、βを無限回使う必要がある。現実には無限回使うことはできない。「βを無限回使う」ということは、「無限小が連続個存在する」ということの存在性を証明するときには使えるが、特定の無限小を決定するときには使えない。(決定のために無限回の操作を必要とするということは、決定できないということだ。)
 この意味で、公理9の選択準関数 β は、集合論の選択関数とは大きく異なる。
 簡単に言うと、連続区体論の世界では、選択関数に相当する機能は、可算の範囲までしか使えない。換言すれば、区体論の世界では、
 「可算選択公理のみが成立して、選択公理は成立しない」
 と言える。これは、濃度について便宜的に区別される制限ではなくて、理論の基本から不可避的に生じる制限である。
 区体論の世界では選択公理を導入できない、というわけではない。導入することは、可能であろう。ただし、導入するには、かなり不自然な操作を必要とする。自然に理論を構築する限りでは、可算選択公理のみが成立して、「実数の世界で点を選択する」というような選択公理は成立しにないのだ。


 バナッハ=タルスキーのパラドックスの回避


 区体論では、選択公理は可算選択公理だけが成立して、普通の選択公理は成立しない。
 このことから、バナッハ=タルスキーのパラドックスは自然に回避される。つまり、「1個の球と2個の球は同じ体積を持つ」というような結論を回避できる。
 その意味で、区体論は、現実の日常的な世界を描写するのに適した数学である。
 一方、集合論は、選択公理を含むと同時に、バナッハ=タルスキーのパラドックスを含んでしまうので、現実の日常的な世界を描写するのに適さない。集合論は、われわれのいる宇宙を描写するには不適切な理論なのだ。
 かといって、集合論が選択公理を含まなければ、多くの数学理論を構築できなくなり、数学として役立たずになってしまう。
 そこで、集合論が可算選択公理だけを含むようにすれば、問題はなくなるが、そのかわり、可算選択公理だけを含むという根拠が成立しなくなるので、理論としての基盤性が失われてしまう。そこでは集合論はもはや基礎理論ではなく、何らかの別の理論の上に立つ便宜的な体系にすぎなくなる。


 無限小解析


 区体論では、実数は「点」ではなく「無限小」となる。
 このことから、自然に、解析学は「無限小解析」となる。
 しかも、超準解析というモデル的な拡張理論とは違って、根源からして無限小を含むようになる。そこでは、無限小は、「点を拡張したもの」ではなくて、「最初からそこにあるもの」である。
 しかも、区体論における解析学は、「点」の存在を許容しない。「点」はモデルの基盤となるものではなく、「会ってはならないもの」として排除される。
 たとえば、円周率
   3.1415 ………………
 という数字があるが、個の数字は、「点」として与えられるのではなく、「無限小」として与えられる。
 イメージとしては、定規の目盛りを、次々と 10分割していったと考えればいい。10分割を次々と繰り返すことによって、目盛りをの幅はどんどん小さくなる。しかし、どんなに小さくなっても、そこには何らかの幅がある。それゆえ、小数というものは、どんなに小さくなっても、大きさを持つ。つまり、点ではなく、無限小である。






 公理系


 区体論の公理系は、別のページ(発展編)に示したが、それを転載する形で、以下に記す。

( ※ これは専門家向けの公理系なので、初心者には読みにくいだろう。初心者は、別途、Part1から読み進めてほしい。そちらには、解説も記してある。)

 【 区体論の公理系 】



[記号のリスト]
論理記号: #, ¬, ⇒, (, )
変項: X_1, X_2, ...
個体記号: φ, Ω
関数記号:
 1変数: α
 2変数: ∪, ∩, -
述語記号(全て2変数): ⊂, =, @

[区体の構成規則]
1. 変項及び個体記号は区体である、
2. A, Bが区体なら、( α (A)), (A∪B), (A∩B), (A-B)も区体である、
3. 1, 2によって区体と分かるもののみを区体という。
括弧は適宜省略する。

[論理式の構成規則]
1. A, Bが区体なら、(A⊂B), (A=B), (A@B)は論理式である、
2. P, Qが論理式で、Xが変項なら、
(P)⇒(Q), (¬P), #X(P)は論理式である、
3. 1, 2によって論理式と分かるもののみを論理式という。
括弧は適宜省略する。

[略記]
1. P, Qが論理式ならば、P∨Qなる記号列は¬P⇒Qと置き換える、
2. P, Qが論理式ならば、P∧Qなる記号列は¬(P⇒¬Q)と置き換える、
3. P, Qが論理式ならば、P⇔Qなる記号列は(P⇒Q)∧(Q⇒P)と置き換える、

[束縛及び自由の定義]
P, Xをそれぞれ論理式、変項とする。
Pが#Xという記号を含む時、XはPで束縛されていると言う。
また、Pが束縛されていないXを含む時、PはXを自由に含むと言う。

[代入の定義]
Pが論理式で、Xが変項で、Aが項ならば、
Pに現れる全てのXをAに置き換えたものをP[X/A]と書く。

[公理の定義]
P, Q, Rを任意の論理式、X, Y, Zを任意の変項、Aを任意の区体とする時、
次の型の論理式を公理と呼ぶ:
P1. P⇒(Q⇒P)
P2. (P⇒(Q⇒R))⇒((P⇒Q)⇒(P⇒R))
P3. (¬Q⇒¬P)⇒(P⇒Q)
P4. #X(P)⇒P[X/A]
P5. #X(P⇒Q)⇒(P⇒#X(Q))
A1. #X(X⊂X)
A2. #X#Y#Z(X⊂Y∧Y⊂Z⇒X⊂Z)
A3. #X#Y(X⊂Y∧Y⊂X⇔X=Y)
A4. #X#Y#Z(X⊂Y∩Z⇔X⊂Y∧X⊂Z)
A5. #X#Y#Z(X∪Y⊂Z⇔X⊂Z∧Y⊂Z)
A6. #X(φ⊂X∧X⊂Ω)
A7. #X#Y(X⊂Y⇒X∪(Y-X)=Y∧X∩(Y-X)=φ)
A8. #X#Y(X@Y⇔X⊂Y∧¬X=φ∧#Z(Z⊂X⇒Z=φ∨Z=X))
A9. #X(¬X=φ⇒ α (X)@X)
ただし、P4ではAはPで束縛されている変項を含まないとし、
P5ではPはXを自由に含まないとする。

[証明の定義]
P_1, ..., P_n, Qをそれぞれ論理式とする。
P_1, ..., P_nからQへの証明とは、
論理式から成る順序づけられた列R_1, ..., R_mであって、
各R_i (i=1, ..., m)は
1. P_1, ..., P_nのいずれかであるか、
2. 公理である、即ちP1-5, A1-9の型の論理式であるか、
3. R_j, R_k (j, k<i)があって、R_kはR_j⇒R_iという型であるか、
4. R_j (j<i)と変項Xがあって、R_iは#XR_jという型か、
のいずれかであり、
しかもR_mはQである、
という条件を満たすR_1, ..., R_mを指す。

 《 注釈 》
 (#X)とは書かずに、#X と書いている。カッコはなくても、同じことである。
 

 公理系の違い



 上記で示した公理系は、当初の公理系とは少し違うところがある。
 (1)
 次の二つの公理は一体化して、公理6となっている。
  ・ 空区体の存在を示す公理  (元は公理3)
  ・ 全空間の存在を示す公理  (元は公理4)

 (2)
 等号(=)は、定義によって規定するのではなく、無定義語として導入してから、公理によって規定する。

 (3)
 アトムを示す公理は、 @ を無定義語として導入してから、公理8によって @ の意味を規定して、公理9によってアトムの存在を規定する。つまり、アトムを示す公理は、二つの公理で示される。
( ※ この公理9は、ここでは「公理9」と呼ぶが、他の箇所の「公理8」の半分である。その意味では、上記の公理8と公理9は、「公理8a」と「公理8b」と書く方が適切かもしれない。他の箇所では、公理9は、実数を構築するための二分割の公理を意味する。……ちょっとまぎらわしいので、間違えないでほしい。)

 [ 付記 ]
 二つの書き方では、公理系の書き方が違うが、本質的には同じことを意味している。特に、「公理とは陰形式の定義だ」という発想を取れば、定義を使うか、無定義語と新たな公理を使うかは、どっちにしても同じことだ。本質的には同じことであり、書き方の違いにすぎないので、気にしなくていい。その意味で、(1)(2)はあまり気にしなくていい。
 ただ、(3) のことは、文脈によって公理の番号が違っているので、注意してほしい。すぐ上にも述べたが、上記で定式化された公理系では、「公理8」と「公理9」は、「公理8a」と「公理8b」と書く方がわかりやすい。両者が一体化して、他の箇所の「公理8」に相当する。
 他の箇所の「公理9」に相当するものは、ここでは記していない。というのは、公理9を導入するには、あらかじめペアノ公理を導入して、自然数を構築しておく必要があるからだ。それは、手続きとしては簡単だが、書くのが面倒なので、ここでは省略する。(ただし、省略するとはいえ、公理9の導入の方法はすでに述べたように、簡単にできる。書く手間が面倒なだけだ。)


 公理系の特性(無矛盾性・完全性)


 上記で導入された公理系には、著しい特徴がある。それは、存在を示す限量記号(∃)を使っていない、ということだ。範囲規定された自由変項を意味する # という記号だけがある。( ∀ という記号に相当する。ただしその対象は、アトムとは限らず、アトムの集団である区体でもいい。)
 この体系は、基本的には、自由変項だけからなる体系である。このような性質は、特別な結果をもたらす。それは、「無矛盾性や完全性を証明しやすい」ということだ。
 その具体的な手順は、数学基礎論の専門的な知識を必要とするので、ここでは断言はしないでおく。だが、このような形の述語論理の体系は、無矛盾かつ完全な体系となるはずだ。

 特に、ここでは、濃度の公理が含まれていないことに注意してほしい。そこで、濃度が1(アトムが1個だけある)という体系をモデルとして取れば、そのモデルでは、上記の公理がすべて成立することがわかる。その意味で、この体系は無矛盾である。ここまでであれば、断言できる。


 分出公理


 ここまでの話では、あえて書き落としていたことがある。それは、分出公理の位置づけだ。
 実を言うと、上記の区体論の公理系だけでは、集合論と等価な体系を構築することはできない。「物の集まり」としての性質をも足させるには、「分出公理」が必要なのである。

 分出公理:
 「区体 X に含まれるアトムのうち、 P(a) が真であるようなアトム a のすべてを集めた区体 A を取ることができる」


 これは、集合論ふうの体系を構築するためには、どうしても必要である。
 また、分配法則も、分出公理から導き出されることがわかっている。


 分配法則:
  X∪(Y∩Z)=(X∪Y)∩(X∪Z)
  X∩(Y∪Z)=(X∩Y)∪(X∩Z)


 分配法則は、数学の構築には必要だが、区体論の構築では、あえて「区体論」の範囲には含めないでおく。なぜか? もし含めると、体系の「無矛盾性」や「完全性」が証明しにくくなるからである。
( ※ 分出公理を使わず、分配法則だけを使うのであれば、たぶん大丈夫だろう。しかしそれはまた別の話題。)


 区体論の位置づけ


 前にも述べたように、区体論には濃度の公理が含まれない。そのせいで、自然数すらも構築できない。自然数を構築するには、別途ペアノ公理が必要である。
 同様に、区体論には分出公理が含まれない。そのせいで、分配法則すらも構築できない。

 以上のように、区体論は、それ単独ではきわめて弱い体系である。ただし、そのように最小限に絞ることによって、体系全体の「完全性」や「無矛盾性」に到達できている。

 そして、このように完全性や無矛盾性を(ある程度は)達成した基礎理論を構築したら、そのあとで、そこに濃度の公理(ペアノ公理など)を加えて自然数を構築したり、分出公理を加えて「物の集まりを扱う理論」を構築したりするわけだ。

 比喩的に言うと、こうだ。
  ・ 集合論 …… 1階建て
  ・ 区体論 …… 多数階建て


 集合論は、1階建ての理論である。そこでは、濃度の公理も、分出公理も、さらにはもっと強い公理も、いろいろと含まれる。それゆえ、非常に強い体系ではあるが、無矛盾性や完全性は得られない。(自然数論を含む述語論理の体系であるがゆえに、無矛盾性や完全性は得られないことが判明している。)

 区体論は、多数階建ての理論である。そこでは、濃度の公理も、分出公理も、さらにはもっと強い公理も、いずれも含まれない。それゆえ、非常に弱い体系ではあるが、無矛盾性や完全性は得られる。そして、いったんそのような体系を得たら、それを基礎理論として、1階に置く。この一階の上に、ペアノ公理や分出公理などを次々と加えていくことで、それらの全体によって数学の世界を構築していく。

 両者の違いは、どこにあるか? 得られる範囲は、ほぼ同等である。ただし、集合論では、無矛盾性や完全性はまったく判明していない。一方、区体論では、体系の核心部分において無矛盾性や完全性が判明する。その後、濃度の公理や、分出公理を、追加することで、拡張していくわけだが、これらの追加によって無矛盾性や完全性が壊れてしまうかどうかだけが、課題となる。しかるに、そのようにしたときに無矛盾性や完全性壊れてしまうかどうかは、あまり大きな問題とはならないはずだ。(区体論の体系の無矛盾性や完全性の問題に比べれば。)

 このような形で、数学の基礎について、可能な限り最大限の無矛盾性や完全性を得るということが、区体論の目的だ。
 区体論で得られた範囲よりも広い範囲では、無矛盾性や完全性は得られない。(ゲーデルの不完全性定理による。)
 その意味で、人類の到達できる最大限の範囲で無矛盾性や完全性を得ることができるというのが、区体論の意義だ。
 
 なお、この目的や意義は、「体系の範囲を最大限に拡大する」という集合論のあり方とは違う。そのように「体系の範囲を最大限にする」というのは、基礎理論の上に立つ応用理論の役割であり、基礎理論の役割ではない。
 「体系の範囲を最大限に拡大する」という集合論のあり方は、区体論においては、次の形で追求される。
 「区体論の上に構築された濃度の理論」
 これを「区体的濃度論」と呼ぶことにしよう。

 区体的濃度論では、連続濃度を超えた、さまざまな濃度を導入できるように、多くの公理を構築できる。その点では、集合論に近い体系を構築できる。
 ただし、区体的濃度論では、集合論とは著しく異なる点がある。それは、「べき集合公理に相当するものがない」ということだ。
 区体論の世界では、アトムと区体とは、同じレベルにある。それゆえ、この体系内では、「べき集合」というものは存在しない。作ろうと思っても作れない。したがって、濃度がべき乗ふうに次々と上昇していくということは起こらない。
 その意味で、それぞれの区体空間は、一定の濃度をもつ。たとえば、
  ・ 濃度が「有限」の区体空間
  ・ 濃度が「可算」の区体空間
  ・ 濃度が「連続」の区体空間
 これらがそれぞれ別個に存在し、たがいに干渉することはない。たとえば、可算の区体空間は、あくまで可算個のアトムがあるだけだ。そこにおいて「べき集合」のようなものをつくって、濃度を連続にすることはできない。

 では、区体論では、べき集合に相当するものをまったく作れないのか? そんなことはない。勝手に定義すれば、勝手に新たな空間を作れる。
 しかしそうして定義された区体は、もはや最初の区体空間において定義されたものではない。最初の区体空間の外に定義されたものだ。
 濃度が可算の区体空間において、べき集合ふうものを構築できるが、それは、元の区体空間に属するものではなくて、新たに定義された別の区体空間に属するものだ。

 区体論では、区体空間がそれぞれ別個に定義される。なぜなら、「空間全体」(全空間)というものが、あらかじめ規定されているからである。
 その全空間を、個別に Ω とか何とか、さまざまな記号で示すことができる。そして、それぞれの空間ごとに、別個の体系が構築される。そして、それぞれの空間は、たがいに干渉しないのである。

 この意味で、区体論の空間は、「閉じた空間」である。このことの意味は、非常に大きいので、混同しないで、きちんと理解しておいてほしい。


 無限小の性質


 無限小については、著しい性質が判明している。次のことだ。
 「無限小をアトムのような使うことができる」

 これは以下のことを意味する。

 二つのアトムが一致することは、等号で書ける。次のように。
   a=b
 同様に、二つの無限小が一致することは、準等号で書ける。次のように。
   a≒b
( ※ 本当は、この記号のかわりに、 = の上側の線を 〜 に置き換えた形を使いたいのだが、ちょっと難しいので、 ≒ という記号で代用しておく。)
 このように無限小の関係は ≒ という記号で示せる。

 さて。すでに示した公理系において、アトムに関する公理について、等号 = を準等号 ≒ に置き換えると、そのことは無限小についても成立することがわかる。
 特に、公理8(8a)を書き換えた形で、次のことが成立する。
  空でない任意の無限小 X に対して、
    #Z(Z⊂X⇒Z=φ∨Z≒X)
 つまり、無限小 X については、
  「それに含まれるものは、空でなければ、X と同じである」
 ということが成立する。(ただしここで「同じ」ということの意味は、等号 = ではなくて、準等号 ≒ である。)

 上のこと(公理8の変形)が成立する。また、他の公理はすべて無条件に成立する。したがって、可算区体論で成立するすべての定理について、その等号を準等号に書き換えた新定理が成立する。

 たとえば、アトムに対して、
   a=b ∧ b=c ⇒ a=c
 が成立するが、その = を ≒ に置き換えて
   a≒b ∧ b≒c ⇒ a≒c
 と書くと、これもまた成立する。

 以上のように、無限小はアトムと同様にふるまうことがわかる。
( ※ これは非常に重要な結論である! 区体論における最大の定理だと言ってもいい。)

 したがって、普通の数学における「点」についての四則演算は、そのまま「無限小」についての四則演算に置き換えることができるのだ。
 つまり、「点 実数論」は、そのまま「無限小 実数論」に置き換えることができるのだ。
 しかも、このことは、モデル論的な(超準的な)方法によらずに、オーソドックスな公理的な手法によって結論できる。
 こうして無限小解析が、自然に導入できるのである。

 というか、区体論の解析学は、自動的に無限小解析になる。区体論の世界では、実数はあくまで無限小なのだ。そこでは従来のような「点 実数論」に基づく解析学は、そのままでは成立しない。いったん「点」を「無限小」に置き換える形にしないと、区体論では解析学が成立しない。
( ※ というものは、あくまでアトムのある可算濃度の世界で成立するものだ。一方、連続濃度の世界では、区間を次々と2分割することで無限小を得ることはできるが、点を得ることはできない。広がりのある空間というものには、「分割不可能な原子」のようなものは存在しないのだ。いくらでも範囲を小さく狭めることはできるが、「分割不可能な原子」のようなものは存在しない。その意味で、「空間を構成する点状の量子」つまり「空間子」というようなものは存在しない。区体論の世界では。)


 実数の構成法


 上記の話を読めばわかるだろうが、実数の構成をするための方法は、集合論と区体論とでは、著しく異なる。
  ・ 集合論 …… まず点を取って、それを次々と増やしていく。
  ・ 区体論 …… まず全体を取って、それを次々と分割していく。
 
 このことは、概念的には、次のような印象がある。
  ・ 集合論 …… 下から上へ構成していく。(小さなものから大きなものへ)
  ・ 区体論 …… 上から下へ構成していく。(大きなものから小さなものへ)

 上のことは、ただの方法の違いだろうか? いや、次の重要な違いをもたらす。
  ・ 集合論 …… 点を操作できる回数はたかだか可算個であるので、可算個しか決定できない。
  ・ 区体論 …… 無限小を決める手順は可算回だが、操作そのものは2の可算乗であるので、連続個を決定できる。

 要するに、次の差が生じる。
  ・ 集合論 …… 決定できる実数はごく一部分のみであり、実数の大部分は「決定できないもの」である。(存在性は言えるが決定不可能。)
  ・ 区体論 …… 実数のすべては決定可能である。
 一つ一つを個別に決定するのではなく、n段階目では2のn乗個を一挙に決定する。「0または1を取る」という形で。……ただし、具体的に0または1のどちらを採るかを決定するのは、また別の話。そこまで詳細に決めるのならば、集合論の実数と同様になる。ただ、集合論の実数では、「挟み込み」の方法を使うので、いちいち個別に決定するしかなかった。区体論の実数では、もうちょっとおおまかに決定することが可能である。「0または1の数字列」という形で。……かなり直感的だ。
 集合論による実数論では、「実数のほとんどすべてが決定できなままである」という難点が生じる。これは、矛盾と言うほどではないのだが、どうにも気持ちの悪い難点だ。
 一方、区体論による実数論では、こういう難点は生じない。

 一般に、「区体論は美しい体系である」と言えるが、そのことが、実数論においても成立するわけだ。
 もしあなたが、「数学は美しい体系であるべきだ」とか、「真実は美しくてエレガントであるべきだ」と信じるのであれば、区体論はその希望を叶えるだろう。

( ※ 余談だが、私が区体論を研究した動機は、「美しさの追求」だった。集合論がどうにも美しくない理論であったので、「もっと美しい理論」を求めた。美しさだけを追求して、公理系を構築していった。そうすると自然に区体論の公理が現れたのである。私が区体論を天下り的に創案したのではない。美というものをひたすら追いかけていったら、あるとき木陰から、区体論が勝手に出現したのだ。……真実というものはたいていそういうものだが。)


 実数空間と自然数空間の分離


 ときどき次の誤解をする人がいる。
 「公理8と公理9はたがいに矛盾する。これは区体論が矛盾を含むということだ」
 そんなことはない。なぜなら、公理8の成立する空間 Ω と、公理9の成立する空間 Θ とは、別々の空間だからである。
 要するに、公理8と公理9はたがいに「排反的」なのである。どちらか一方だけが成立する。したがって、「同時に成立する」という意味の「矛盾」とは異なる。  公理8の成立する空間 Ω と、公理9の成立する空間 Θ とは、別々の空間である。(上記)
 このことから、次の結論が得られる。
 自然数と実数とは、それぞれ別の数学空間を構成する。特に、次の二つは別のものである。
      自然数としての  1
      実数 としての  1.00000000……
 上の二つは別のものである。「どちらも同じ 1 だ」ということはない。この事情は、集合論の場合とは大きく異なるので、注意してほしい。

 集合論では、この二つは同じものである。どちらも数直線上に存在するものだ。その意味で、次のように表現されることもある。
 「実数は連続的だが、自然数は離散的(とびとび)である」
 なるほど、数直線上で自然数を取れば、自然数は離散的(とびとび)であるように見える。集合論の立場では。

 区体論では、そうではない。数直線上にある数は、すべて実数である。
        1.00000000……
 という数もまた、実数である。そしてこれは、自然数ではない! 「自然数に対応する実数」であるにすぎない。
 自然数そのものは、
   1,2,3,4,5,……
 というふうに続く数だ。そして、その中間となるような自然数は、もともと存在しない。たとえば、1と2との中間に位置するような自然数は存在しない。その意味で、自然数というものは離散的ではない。離散的なのは、「自然数に対応する実数」だけだ。自然数そのものは、離散的ではない。そもそも両者は、属する空間が異なるのである。
 この点は、集合論によって構成される自然数と実数の場合とは、大きく違うので、注意してほしい。
( ※ そもそもその空間を成立させる公理系からして違っている。いわば、ユークリッド幾何学の空間の公理系と、非ユークリッド幾何学の空間の公理系のように。)

 区体論のシンプルさ


 区体論は、基本的には、数学を構成するための「まっさらな状況」(最小限度のもの)だけを提供する。換言すれば、余分なものを一切含まない。新たな性質を導入したいときには、いちいち新たな性質を規定する公理系を導入する必要がある。
 その意味で「強い体系」ではない。あくまで「簡素な」(シンプルな)体系なのである。そして、それが強みとなる。なぜなら、もともと余分なものを含まないがゆえに、新たに追加される性質がはっきりと明示されるからだ。
 たとえば、自然数という性質を追加するときには、ペアノ公理という公理系を追加する。このことで、どの部分が自然数という性質に相当するのか、はっきりとする。
 一方、集合論では、そうではない。正則性公理などから自然数が導き出されるが、自然数という性質が公理系のなかでどこに相当するのか、はっきりとしなくなる。「ペアノ公理は集合論のなかで、この公理に相当する」というようなことは説明しがたい。
 (公理系から自然数を導き出すことはできるが、その逆は成立しない。)
 一方、区体論ならば、「自然数の構成はペアノ公理で」というふうに、構成法がはっきりと明示される。つまり、区体論そのものは、自然数の構成には関与しない、とはっきり明示される。
 こういうふうに、それぞれの担当領域がはっきりしていて、見通しがいいというのも、区体論の長所である。そして、それは、区体論が「必要最小限のものからなる」という、「シンプル・イズ・ベスト」の発想を取っているからなのだ。


 最後に


 このページはあくまで専門家向けの簡潔な「まとめ」である。
 詳細は、それぞれ該当の説明を読んでほしい。

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