区体論(Part1〜Part3)がネットで初めて公開されたのは、1996年のことである。
その後、2000年に、専門解説編(PartExp)が公開され、無限小解析への道が開かれた。とはいえ、ここでは、道が開かれただけであり、「正表示形の区体論とはどのようなものであるか?」という問題については、解決はうまくなされなかった。ここでは、形式化が不十分であった。
ただし、2005年の夏になって、区体論は新たな発展をなしえた。「正表示形の区体論とはどのようなものであるか?」という問題について、十分な解決をなすことができた。本稿では、この問題を扱う。
簡単に言えば、こうだ。
「仮表示形の区体論は、もともと十分に形式化されていたが、正表示形の区体論は、形式化が不十分であった。そのせいで、判明していない事柄も、いろいろとあった。しかしながらようやく、正表示形の区体論を、十分に形式化することができた。同時に、区体論の位置づけも、はっきりとした。これをもって、区体論という体系は、完成したと見なされる」
(残る問題は、区体論を利用して、数学の体系を構築することだ。しかしこれは、区体論の応用の問題であり、区体論そのものの問題ではない。分野で言えば、一般数学の問題であり、数学基礎論の問題ではない。……この件については、区体論自体は、担当外である。たとえて言えば、「物理学が数学をいかに利用するべきか?」という問題は、数学自体の問題ではない。それと同様だ。)
[ 注記 ]
この研究成果は、南堂久史および今井XX(仮名)の、共同研究による。部分的な成果は、どちらかに所属するが、最終的な成果には、この二人がほぼ半々で寄与している。どちらか一方が欠けていても、この成果は得られなかった。
両者の意見は、当初は激しく対立して、なかなか合意は得られなかったが、議論を深めるにつれたすえ、最終的に、結論はほぼ一点に収束した。この収束点が、真実であろう。本項では、この最終的な結論を説明する。(討論の過程は、参考文書の形で、別の文書で示す。)
( ※ なお、研究成果は二人の共同のものであるが、この文書の文責は、南堂だけにある。この文書で記述上の難点やミスがあれば、それはすべて南堂の責任である。この点は、お断りしておく。)
( ※ 「今井XX」は、仮名である。ネット上で有名な「今井弘一」氏とは異なる。本稿の古いバージョンでは、この点を間違って記述したので、お詫びして訂正します。)
公理1〜8の範囲内では、新たなことが判明した。分配法則について、修正すべきことと追加すべきことがある。
分配法則については、新たなことが判明した。
まず、既存の記述では、「分配法則は定理である」と述べたが、これは南堂の記述ミスであった。この点を修正しておこう。
既存の記述では、次のように解釈される記述をしていた。
「公理1〜8があれば、分配法則は簡単に証明される」
南堂はそう思い込んでいたのだが、実は、ここには錯覚があった。これを指摘したのは今井XXである。
実は、次のことが正しい。
「公理1〜8によっては、分配法則は証明されない」
換言すれば、こうだ。
「分配法則は、公理1〜8とは、独立である」(定理ではない)
南堂が確認したところ、たしかにその通りである。この意味で、
「分配法則は区体論における定理である」
という言明は、修正を要する。(ただし、次項に続く。)
では、分配法則は、区体論からは証明されないのだろうか? 分配法則は、区体論の定理ではないのだろうか? もしそうだとすれば、
「分配法則は公理として導入されるべきだ」
という結論が出る。それはそれで、不自然ではない。なぜなら、ブール代数では、分配法則は公理として導入されるからだ。
ただし、区体論の成り立ちを考えると、分配法則は必ずしも必要ない。というのは、分配法則なしでも、自然数を構築することができるからだ。
このことをかんがみて、分配法則の形を見ながら、南堂は次のことを予想した。
「分配法則は、公理1〜8からは証明不可能だとしても、公理10(分出公理)を併用すれば証明可能だろう」
つまり、こうだ。
「分配法則は、公理1〜8と公理10によって、証明可能となるだろう」
この予想について、今井が厳密に調べたところ、この予想は実際に証明された。(本文書では、その証明を示さない。)
結局、次のことが新たに判明したわけだ。
(1)「分配法則は、公理1〜8からは、証明されない。(独立である)」
(2)「分配法則は、公理1〜8および公理10から、証明される」
この二つを、「今井の定理」と呼ぶ。
「今井の定理」は、次のことを意味する。
・ 分配法則は、公理1〜8という体系に対しては、体系外のものとして扱われる。
・ 分配法則は、公理1〜8および公理10という体系に対しては、体系内の定理として扱われる。
なお、前者の立場を取った場合、分配法則は「体系外の公理」というふうに扱われる。その公理を取れば、そういう体系(分配法則あり)が新たにできるし、その公理を取らなければ、やはりそういう体系(分配法則なし)ができる。(もともとあるのは、そういう形。)
さらに、次の事実もある。
・ ブール代数では、分配法則は、公理の一つとなっている。
・ ブール代数では、分配法則は、包含の意味を取るために必須である。
一般に、分配法則がないと、その体系は、包含の意味にならない。詳しい説明は省くが、区体論の公理5、6、7は、包含の意味を示すには、いささか力不足なのである。(今井の指摘。)
以上のことから、次の発想が生じる。
「区体論が、集合論のように、包含の意味をもつ体系であるためには、区体論において、分配法則を公理として新たに追加するべきである」
これはこれで、一つの立場である。別に間違ったことは言っていない。
ただし南堂は、よく吟味した末、この発想を否定した。次のように。
「区体論は、集合論のように、包含の意味をもつ体系である必要はない」
なぜかというと、分配法則によって包含の意味をもたなくても、自然数を構築できるからだ。(ペアノ公理を併用する。)
ここでは、次の発想を取る。
「理論が強力であることを目的とせず、理論が多様であることを目的とする」
仮に、理論が強力であることを目的とするなら、分配法則があった方が強力な理論となるので、分配法則を公理として導入するべきだろう。しかし、自然数の構築のためには、分配法則は、なくてもいいのである。「なくてもいいものをあえて必須のものとして導入することはない」というのが、南堂の判断である。かくて、南堂はこう結論した。
「区体論自体は、分配法則を含まない。ただし、区体論に分配法則を追加した体系を数学的に構築できる」
この発想では、次の二通りが可能だ。
・ 区体論 (分配法則あり)
・ 区体論 (分配法則なし)
この二通りに分けたあとでは、「分配法則あり」の方を研究することもできるし、「分配法則なし」の方を研究することもできる。研究に多様性ができる。というわけで、「どちらか一方ではなく両方を取る」という判定を下した。そして、そのためには、
「最初の区体論は、分配法則なしであり、そのあとで、分配法則を足すこともできる」 という扱いをすることになる。
実は、同様のことは、(分配法則以外の)他の公理にも当てはまる。特に、最大のものは「濃度の公理」である。次のことに注意してほしい。
「区体論は、濃度についての公理をもたない」
ここでは、無限公理(ペアノ公理に相当するもの)もないし、実数を構築するための公理もない。濃度に関する公理は、何もない。なぜか? 南堂が追加するのを忘れたからか? 違う。区体論では、あえて意図的に、濃度についての公理をはずしているのである。その理由は、こうだ。
「濃度については、自由に設定できる」
濃度の公理は、区体論の公理とは別の公理として、別途、追加される。そのとき、追加される公理に応じて、別の数学的体系ができる。次のように。
・ 濃度が 1 という公理を追加 → 濃度 1 の数学的体系ができる
・ 濃度が n という公理を追加 → 濃度 n の数学的体系ができる
・ 濃度が可算という公理を追加 → 可算濃度の数学的体系ができる
このように、それぞれ、能動についての別の公理を追加することで、別の数学的体系ができる。
分配法則もまた、濃度についての公理と、同様である。
・ 分配法則を公理として追加する → 「分配法則あり」の数学的体系ができる
・ 分配法則を公理として追加しない → 「分配法則なし」の数学的体系ができる
こうして、二通りの数学的体系ができる。
( ※ さらに言えば、公理10の「分出公理」も同様である。分出公理の「あり/なし」で、別の数学的体系を構築できる。)
以上のことからわかるように、区体論では、次の発想を取る。
「区体論は、それ自体では、最小限の基礎部分(いわば核 core のようなもの)である。それはそれで有益であるが、実際に区体論を使うときは、ここにさらに別の公理をいくつか追加して使う。そうすると、通常の数学的な体系を構築できる」
「追加するべき別の公理は、自由に取りはずしや交換が可能である。そのことで、さまざまな体系を簡便に扱うことができる」
この方針は、集合論の方針とは、異なる。わかりやすく説明するために、「補足解説編」に述べた言葉を使うと、次のようになる。
・ 集合論 …… 最初からすべての公理を備えている。
・ 区体論 …… 最初は最小限のものだけがあり、そこにオプションを追加する。
これを比喩的に言えば、次のようにパソコンの形でたとえられる。
・ 集合論 …… 多くの機能が最初から装着された、大手メーカー製パソコン。
・ 区体論 …… 最小限の機能にオプションを加える、カスタマイズパソコン。
この二つについては、「どちらがいいか?」というふうに決めつけることはできない。単に方針が異なるだけだ。
なお、この方針の違いは、次項のように説明することもできる。
前項のことから、数学の理論としての構成について、次のように言える。
「集合論は二段構えだが、区体論は三段構えである」
このことは、次の図式で示せる。
一般数学 一般数学
| |
集合論(基盤) 区体論+ ζ
|
区体論
集合論では、数学を構築する過程は、「二段構え」である。まずは、数学の基礎としての「集合論」を構築する。これは、あらゆる数学の基盤となるものであるから、あらゆる数学を根拠づけるための力を、いろいろと備えていなくてはならない。包含やら、自然数やら、実数やら。……そのためには、公理系は強ければ強いほどいい。なるべく多くの公理を、ここに追加するべきだ。
区体論では、数学を構築する過程は、「三段構え」である。まずは、根源的な基盤としての「区体論」を構築する。その上に、さらにいくつかの数学的公理( ζ )を追加することで、数学の基盤(集合論に相当するもの)ができる。この ζ は、取り替えが可能である。そして、取り替えの利かない核としての部分(根源的な基盤)だけが、区体論である。……ここでは、区体論それ自体は、あらゆる数学の基盤となるものではない。区体論それ自体は、数学の基盤としては、力不足である。しかし、力不足であるのは、あえてそうしようと狙ったからなのだ。「他の公理( ζ )を自由に交換する」ということのために。
以上では、集合論と区体論を比較して、
「集合論は二段構えだが、区体論は三段構えである」
ということを説明した。この説明を理解すれば、次の批判についても、意味がわかるだろう。
「区体論は、測度を扱えないので、集合論よりも役に立たない」
「区体論は、それ単独では実数も自然数も扱えないので、集合論よりも役に立たない」
ここには、根源的な勘違いがある。集合論と比較するべき対象は、「区体論+ ζ 」であるのに、集合論と区体論を直接的に比較してしまっている。比較すべきではないものを比較しているのだ。
区体論は、濃度について「扱えない」のではなくて、「扱わない」のである。なぜなら、「濃度については自由に選択できる」という自由さを得るためだ。この自由さがあるから、区体論では、集合論には出来ないことができる。
「濃度1の区体空間」
「濃度nの区体空間」
「可算濃度の区体空間」
このような区体空間を想定できる。そしてまた、モデルを考察したり、無矛盾性を考察したりすることができる。それというのも、「濃度については自由に選択できる」という自由さを得ているからだ。つまり、「加えるべき公理を自由に選択できる」という自由さを得ているからだ。
とにかく、区体論と一般数学との関係は、集合論と一般数学の関係とは、かなり異なる。「集合論は二段構えだが、区体論は三段構えである」という差がある。この差を、はっきりと理解してほしい。
なお、この差がはっきりとするのは、「無限小実数論」を扱うときだ。なぜなら、そこでは、公理8をはずして、公理9を導入することで、別の形の区体論を扱うことができるからだ。……それは既存の(集合論的な)数学とは、まったく別の数学体系である。
つまり、区体論は、その核心部分の一部である公理8すらも交換可能にすることで、集合論よりも広い理論となれるのだ。このことは、本文書の後半で詳しく論じる。
ここで、区体論をブール代数と比較してみよう。
第1に、先に分配法則との関係で、こう述べた。
「ブール代数では、分配法則は、公理の一つとなっている。しかし、区体論では、そうではない」
第2に、(この文書ではなく)「補足解説編」では、こう述べた。
「区体論の公理系は、ブール代数の公理系に、公理8を加えたものである」
以上の二つをまとめると、おおまかに、次のように言える。
「区体論は、ブール代数から分配法則を排除して、公理8を加えたものである」
さて。なぜ、ブール代数では分配法則があり公理8がないのか? また、なぜ、区体論では分配法則がなく、公理8があるのか?
この問題については、次のように応えることができそうだ。
・ ブール代数は、幾何学的な包含を扱う。
・ 区体論は、代数的な数論を扱う。
つまり、こうだ。ブール代数には、包含という(一応)概念はあるが、区体論にはない。また、ブール代数には(アトムという概念がないので)「数」の概念がないが、区体論には(アトムという概念があるので)「数」の概念がある。
以上のことを図式化すると、次のように示せる。(下方が基礎、上方が発展)
数学基礎論の空間
/ \
[公理8] [分配法則(公理)]
\ /
[公理3〜7]
|
[公理1〜2]
説明しよう。
まず、すべての理論の基礎として、公理1〜2がある。
その上に、公理3,4を加えて、下限と上限を与える。
さらに、公理5,6を与えて、中間値における大小関係を与える。( min, max 理論)
さらに、[公理8]または[分配法則(公理)]のどちらかを与える。前者を与えると区体論となり、後者を与えるとブール代数となる。
最後に、[公理8]および[分配法則(公理)]を合体させる。すると、区体論とブール代数が合体し、数の理論と包含の理論が合体する。すると、代数と幾何とが一致した、普通の数学空間の基礎を与える。
(なお、公理8のかわりに公理9を与えても、同様のことが言える。)
以上のことから、次のことが強く推定される。
「区体論は、数の理論であるから、代数的なことはほとんどが処理可能だ。ただし、幾何学的(図形空間的)なことは、区体論単独では処理できない。」
具体的に言うと、「測度」とか「コンパクト」とかの概念は、図形空間的(位相的)な概念を含むがゆえに、包含の理論を必要とする。そして、それは、公理1〜8(または1〜7,9)によっては得られないのだ。
「公理1〜8(または1〜7,9)によっては、図形空間的(位相的)な理論を扱えない」
このことが、ブール代数との比較からわかる。……これらのことは、あとで無限小実数論を構築するときに、重要な意味をもつようになる。
正表示形の区体論については、形式化が不十分であったが、新たに形式化を十分になすことに成功した。
2005年夏以前の時点では、正表示形の区体論は、形式化が不十分であった。おおまかな方針は示されたが、細かな点では曖昧なところがいくつかあった。特に、「自由変項とは何か」ということで、曖昧さが多くあった。
そこで南堂と今井は、この問題を突き詰めた。その結果、最終的に、正表示形の区体論は、以下で示すように書き直されることになった。
このたび新たに示される正表示形の区体論は、公理系そのものは本質的には変わりないのだが、形式化の手順が変更された。素人がおおまかに理解する範囲では、どっちにしても大差はないが、専門家が細かく手順を調べるのであれば、違いがあることに気づくだろう。要するに、曖昧さをなくして、緻密になったのである。
では、どこがどう変わったか? ごく簡単に言えば、次のことだ。
「自由変項という用語を、述語論理の体系で記述する」
一方、変わっていない点もある。
「区体論の基礎となる体系として、述語論理という体系があるわけではない」
ただし、これまでの発想では、述語論理をことさら必要としないと見なしてきたが、新たな発想では、次のようにする。
「区体論と述語論理とを一体化して理論を構築する」
これらのことは、容易には理解しがたいと思えるので、次項以降で詳しく説明する。
従来の方法では、次の順序で理論を形式化した。
〈 述語論理 〉 → 〈 集合論 〉
すなわち、まず「述語論理」の体系がある。これは、単独で成立する体系であり、集合論を必要としない。この方針を見習うのであれば、区体論も、次の順序になるはずだ。
〈 述語論理 〉 → 〈 区体論 〉
しかし、そうはならない。いきなり最初から、述語論理と区体論が合体して出現する。すなわち、こうだ。
〈 述語論理 + 区体論 〉
対比的にまとめるなら、次のように書ける。
・ 集合論の場合: 〈 述語論理 〉 → 〈 述語論理 + 集合論 〉
・ 区体論の場合: 〈 述語論理 + 区体論 〉
では、なぜ、このようなことをするのか? 区体論の場合は、「述語論理だけ」という体系を前提としない。これは、次の意味がある。
一般に、述語論理では、変数 x で扱われるものは「個物」と呼ばれる。ただし、個物が何であるかは、よくわからない。漠然と「体系内で扱われるもの」というふうに規定されているだけだ。そこには曖昧さがある。
そこで、この曖昧さを排除するために、変数 x で扱うものを、厳密に規定する。区体論では、変数 x で扱われるのは、区体だけである。
( ※ 区体とは何か? 区体論の最初で定義されたように、 x⊂Ω という式を満たすものである。さらに、公理系の公理を満たすものである。)
ともあれ、このようにして、区体論の方法では、述語論理で扱われる対象を「区体論の対象である区体」だけに限定している。当然ながら、「個物」というような概念は現れない。また、述語論理の体系を、あらかじめ必要としない。
このことはかなり重要である。次のように言うことができる。
「述語論理は単独では、必要とされない。述語論理は、区体論と組み合わさった形でのみ、必要とされる」
このことの本質は、次のことだ。
「区体論を形式化するには、述語論理の形式化の手順が必須である。一方、述語論理の変数を規定するには、区体論による意味づけ(区体であること)が必要である。どちらも、相手を必要とする。片方だけでは、うまく成立しない。ゆえに、両方が、いっぺんに採用される必要がある」
このことから、
〈 述語論理 〉 → 〈 区体論 〉
という順序の形は捨てられ、
〈 述語論理 + 区体論 〉
という「両方いっぺんに取る」という形が採用される。
区体論では、述語論理と区体論をいっぺんに取る。では、そのことの意義は、何か? それを考えるとき、次のように質問する人もいるかもしれない。
「そんなことをして、どんなメリットがあるのか? 何らかの制限を課すことで、新たに豊かな結果を得られるのか?」
実は、その質問自体が、正しくない。「述語論理と区体論をいっぺんに取る」ことの理由は、「何かができること」ではなくて、「何かができないこと」である。
従来の数学の価値観では、こうなる。
「数学というものは、多くのことができた方がいい。できることは、多ければ多いほどいい」
一方、区体論の価値観では、こうなる。
「数学というものは、余計なことはできない方がいい。必要最小限のことができれば十分であり、必要でもない余計なものはなるべく排除した方がいい」
この価値観は、「不純なものを排除して、数学を純粋化せよ」という発想に基づく。
区体論の価値観によれば、必要なものだけがあればよく、必要でないものはなるべく排除したい。とすると、「一般的な述語論理」というものは、何を扱うかが不明であるがゆえに、「必要ない」と見なされる。
述語論理というものは、対象を「区体」として扱う限りにおいて有効であればよく、対象が何が何だかわからないまま無条件に対象を扱える必要はないのだ。
だから、区体論のメリットは、次のように言える。
「わけのわからないものについても語れること」
をめざすのではなくて、
「わけのわからないものについては語らないこと」
をめざす。対象がどんなものであるかもわからないまま語っても、その命題は真か偽かもわからなくなる。それよりは、対象がはっきりとしていることについてのみ、何らかの命題を語る。知りえないものについては語らず、知りえるものについてのみ語る。──そういう禁欲的な態度が、区体論の立場だ。
具体的な例で言えば、こうだ。
「神は普遍的である」
「神は常にあなたのそばにいる」
「神は姿を見せずとも常に存在する」
このような命題に対して、どう扱うか?
(1) 一般的な述語論理
一般的な述語論理は、「神」が何であるかもわからないまま、真偽のを言明する。ここでは、「神」という単語も、「集合」という単語も、どちらも述語論理における変数になる。両者を区別することはできないから、述語論理はどちらも変数として扱う。いずれにせよ、ここでは、
「神を述語論理で扱う」
というふうにしている。なぜなら、それを禁じる理由はないからだ。
(2) 区体論 + 述語論理
「区体論 + 述語論理」という体系では、「神」という言葉が区体論の区体として扱えるかどうかが、問題となる。「神」がアトムとして扱えるのであれば、アトムとして「一つ、二つ」というふうに数えることができるはずだ。また、神が唯一のものであるとすれば、あちこちに同時に存在することはないはずだ。また、神が唯一で巨大なものであるとすれば、神の大きさをメートルなどで測定することができるはずだ。……しかしながら、一般的には、神という言葉で示されるものは、そういうものではない。つまり、神は(一つまたは複数の)アトムとしては扱えない。つまり、神は区体ではない。区体ではないから、区体論では扱わない。こうして、区体論では、
「神についての命題は、体系外のものとして、言及しない」
というふうにするわけだ。
言語哲学者のヴィトゲンシュタインは、こう語った。
「語りえないものについては、沈黙しなくてはならない」
これは区体論の発想でもある。わけがわからないまま、何でもかんでも語ればいい、ということにはならない。やたらと語っても、無意味な言明になるだけだ。狂人の語る無意味語(ジャーゴン)のように。
区体論の発想では、わけがわからないものについては語らない。はっきりと語ることのできるものについてのみ語る。そういう発想を取る。
では、「はっきりしたもの」とは、何か? それは、区体空間の区体である。
区体空間の区体とは、次の二つで決まる。
・ 区体の定義 ( x⊂Ω を満たす x )
・ 区体論の公理系 (公理1〜8)
こうして規定された区体についてのみ、いろいろと演繹な操作をなす。それ以外のものについては、何も語らない。──こういう立場が、区体論の立場だ。
[ 補足 ]
こういう立場を取ることに、何か意味があるのか? 実は、通常の「公理1〜8」という体系を取る限りでは、特に大きな意味はない。ただし、「公理9」をもつ体系を取るときには、非常に大きな意味をもつようになる。
それがどういう意味であるかは、今この段階では示さない。この話題は、あとで「公理9」を導入するときに、あらためて論じる。
ではいよいよ、正表示形の区体論の形式化に踏み込もう。すでに Part3で示したところでは、正表示形の区体論はおおまかに概要が示されただけであった。そこでは形式化は不十分であった。というわけで、その不十分さをなくす。すなわち、十分に厳密な形式化をなす。
まず、すでに述べたことを振り返ろう。Part3で示したとおり、正表示形の区体論では、次のことが言える。
「 ∀ や ∃ という記号(限量記号)は、アトムを示す変数のみにかかる」
つまり、(∀B)とか(∃B)とか書くとき、Bのところに位置することができるのは、アトムを示す変数だけである。
この方針で、たとえば、公理10を書くことができる。次のように。
(∃P)(∀X) [ Ψ(X) ⇔ X@P ]
ここで、Ψ(X) は X についての命題である。
この命題 Ψ(X) は、X がアトムを示す記号である場合に限られる。このような命題を「アトム命題」と呼ぶことにしよう。
アトム命題では、変数はアトムを示す記号である場合に限られる。つまり、一般の区体は、変数に来ることはない。このことに留意しておこう。(無用な混同をなさないようにしよう。)
正表示形の区体論では、 ∀ という記号を使うとき、その記号の次に位置するのは、アトムを示す変数だけである。
一方、正表示形の区体論では、一般の区体は、自由変項として扱われる。ここでは、自由変項とは何かということはともかく、次のことは前項から結論されたいた。
「一般の区体(アトム以外の区体)は、 ∀ という記号では扱えない」
たとえば、「任意の区体B」ということを意味するとき、
(∀B)
という記法を取ることはできない。なぜなら、Bはアトムであるとは限らないからだ。(Bがアトムであるときにのみ、 ∀ という記号で記述できる。)
Part3では、この違いのみを示していた。ところが、この違いを示すだけでは、曖昧さが残る。というのは、次のことがはっきりと形式化されていないからだ。
・ 自由変項とは何か?
・ 記号を自由変項として扱うとは、どういう記号操作を意味するか?
これが曖昧であるせいで、アトムの定義(定義20)に、いささか曖昧さが生じてしまうのだ。
まず、Part2の[定義20]は、こうだ。
a@A ≡ [a⊂A]∧[a≠φ ]∧
(∀X)[ X⊂a ⇒ X=φ ∨ X=a]
ここで、 (∀X) を単に「自由変項 X 」に置き換えると、こうなる。(Part3の[定義5])
a@A ≡ [ a⊂A ]∧[ a≠φ ]∧
[ X⊂a ⇒ X=φ ∨ X=a ]
これをそっくりそのまま採用すると、問題ないし誤解が生じる。というのは、
「Xには任意の値を入れてもいい」
と解釈すると、Xのところに φ を代入することで、上の式は、
a@A ≡ [ a⊂A ]∧[ a≠φ ]∧
[ φ⊂a ⇒ φ=φ ∨ φ=a ]
となるが、これから、
a@A ⇔ [ a⊂A ]∧[ a≠φ ]
が得られる。ここで、aとAが自由変項であると見なすと、この式は明らかにおかしい。というのは、ここで、 A のところに Ω を代入すると、
a@Ω ⇔ [ a⊂Ω ]∧[ a≠φ ]
となるが、右辺は恒真であることから、左辺も恒真であることになる。すると、「あらゆる区体 a はアトムである」という命題が得られることになってしまう。
このように、「自由変項」というものを厳密に規定しないままだと、おかしな解釈を生む余地がある。(今井の指摘。)
この問題を回避するには、どうすればいいか?
そもそも、上記のような解釈は、定義5に対する誤解である。正しくは、仮表示形の定義20のように解釈するべきなのだが、前項ではそれとは違った解釈をしている。このような誤った解釈をなくすには、誤った解釈が起こるのを避けるように、明白に形式化しておけばよい。
そのためには、自由変項の範囲を明確に指定すればよい。(南堂の提案。)
具体的には、次のような形式化の方法を取る。
「一般の区体については、∀ という記号のかわりに、新たな記号 # を導入する。これによって、アトムだけでなく、一般の区体も扱う。そのときの記号の扱い方は、一般の述語論理における ∀ という記号と同じである」
この方法の核心は、次のことだ。
・ ∀ に代わる記号 # を導入する。
・ # の次に来る記号は、一般の区体である。(アトムだけに限られない。)
・ (#B)[…………] というふうな記法をすることで、(#B)の適用範囲を規定する。
この方針のもとで、前述の形で定義5を書くかわりに、次の形で公理8を直接書くことにする。
(#a)(#A)[a@A ⇔ a⊂A ∧ a≠φ ∧ (#X)[X⊂a⇒X=φ∨X=a]]
ここでは、(#a) および (#A) の適用範囲と、(#X) の適用範囲とが、明白に規定されている。そのことが重要だ。
Part3の記述では、このことが明白に規定されておらず、読者の解釈に委ねていたので、誤解される(別の解釈がなされる)余地があった。そういう曖昧さがあった。
この曖昧さを防ぐために、 # という記号を新たに導入して、カッコと併用することで、自由変項の適用範囲を明白に規定し、誤解の余地をなくしたわけだ。
※ なお、記号の # は、半角の記号を使う。全角の記号を使ってはならない。
というのは、全角にはよく似た # と ♯ という二つの記号があるからだ。
以上の方針に従ったすえに、最終的に、正表示形の区体論は明確に形式化された。(今井の形式化) これを、以下に記す。
──────
[記号のリスト]
論理記号: #, ¬, ⇒, (, )
変項: X_1, X_2, ...
個体記号: φ, Ω
関数記号:
1変数: α
2変数: ∪, ∩, -
述語記号(全て2変数): ⊂, =, @
[区体の構成規則]
1. 変項及び個体記号は区体である、
2. A, Bが区体なら、( α (A)), (A∪B), (A∩B), (A-B)も区体である、
3. 1, 2によって区体と分かるもののみを区体という。
括弧は適宜省略する。
[論理式の構成規則]
1. A, Bが区体なら、(A⊂B), (A=B), (A@B)は論理式である、
2. P, Qが論理式で、Xが変項なら、
(P)⇒(Q), (¬P), #X(P)は論理式である、
3. 1, 2によって論理式と分かるもののみを論理式という。
括弧は適宜省略する。
[略記]
1. P, Qが論理式ならば、P∨Qなる記号列は¬P⇒Qと置き換える、
2. P, Qが論理式ならば、P∧Qなる記号列は¬(P⇒¬Q)と置き換える、
3. P, Qが論理式ならば、P⇔Qなる記号列は(P⇒Q)∧(Q⇒P)と置き換える、
[束縛及び自由の定義]
P, Xをそれぞれ論理式、変項とする。
Pが#Xという記号を含む時、XはPで束縛されていると言う。
また、Pが束縛されていないXを含む時、PはXを自由に含むと言う。
[代入の定義]
Pが論理式で、Xが変項で、Aが項ならば、
Pに現れる全てのXをAに置き換えたものをP[X/A]と書く。
[公理の定義]
P, Q, Rを任意の論理式、X, Y, Zを任意の変項、Aを任意の区体とする時、
次の型の論理式を公理と呼ぶ:
P1. P⇒(Q⇒P)
P2. (P⇒(Q⇒R))⇒((P⇒Q)⇒(P⇒R))
P3. (¬Q⇒¬P)⇒(P⇒Q)
P4. #X(P)⇒P[X/A]
P5. #X(P⇒Q)⇒(P⇒#X(Q))
A1. #X(X⊂X)
A2. #X#Y#Z(X⊂Y∧Y⊂Z⇒X⊂Z)
A3. #X#Y(X⊂Y∧Y⊂X⇔X=Y)
A4. #X#Y#Z(X⊂Y∩Z⇔X⊂Y∧X⊂Z)
A5. #X#Y#Z(X∪Y⊂Z⇔X⊂Z∧Y⊂Z)
A6. #X(φ⊂X∧X⊂Ω)
A7. #X#Y(X⊂Y⇒X∪(Y-X)=Y∧X∩(Y-X)=φ)
A8. #X#Y(X@Y⇔X⊂Y∧¬X=φ∧#Z(Z⊂X⇒Z=φ∨Z=X))
A9. #X(¬X=φ⇒ α (X)@X)
ただし、P4ではAはPで束縛されている変項を含まないとし、
P5ではPはXを自由に含まないとする。
[証明の定義]
P_1, ..., P_n, Qをそれぞれ論理式とする。
P_1, ..., P_nからQへの証明とは、
論理式から成る順序づけられた列R_1, ..., R_mであって、
各R_i (i=1, ..., m)は
1. P_1, ..., P_nのいずれかであるか、
2. 公理である、即ちP1-5, A1-9の型の論理式であるか、
3. R_j, R_k (j, k<i)があって、R_kはR_j⇒R_iという型であるか、
4. R_j (j<i)と変項Xがあって、R_iは#XR_jという型か、
のいずれかであり、
しかもR_mはQである、
という条件を満たすR_1, ..., R_mを指す。
──────
《 注釈 》
(#X)とは書かずに、#X と書いている。カッコはなくても、同じことである。
正表示形の区体論を得たあとで、これによって数学を構築する。
すでに正表示形の区体論を得た。これを基本にして、実数や数学を構築することができる。
その手順は? 実は、通常の数学の場合と、大差ない。また、仮表示形を使っても正表示形を使っても、どちらにしても大差はない。一言で言えば、こうだ。
「集合論の手順を、区体論の言葉に翻訳する」
具体的には? 基本的な方針は、次の通りだ。
「区体論の体系に、分配法則(公理)や、分出公理を追加する。さらに、無限公理(ペアノ公理に相当する公理)や、べき集合公理に相当する公理を、追加する。このあとは、集合論の場合と、同じ手順を取る」
この方針に従って、次のようにする。(南堂の提案)
・ 無限公理により、自然数を取る。
・ 四則演算を導入して、有理数を取る。(有理数直線も)
・ べき集合公理を導入して、連続濃度を存在させる。
・ デデキントの連続性を導入して、実数の連続性を確保する。(実数直線)
前項の方針で、実際に形式化の手順をチェックすると、これらの手順は可能であることが確認された。(今井の確認)
今井の書いたメールから引用すると、次の通り。
──
【 118 】
区体論的**論について
**論という形式的体系があった時、区体論的**論とは、区体論の公理系に**論の公理系をアトム命題として追加したものです。例えば区体論的有理数論とは、区体論の公理系に有理数論の公理系、即ち順序体の公理系と
P(1)∧∀x∀y(P(x)∧P(y)⇒P(x+y)∧P(-x)∧P(x*y))∧
∀x(P(x)∧x≠0⇒P(x^(-1)))⇒∀xP(x)
をアトム命題として追加したものです。
同様に、区体論的Dedekind実数論とは、区体論の公理系にDedekind実数論の公理系、即ち順序体の公理系と
∃xP(x)∧∃xQ(x)∧∀x(P(x)∨Q(x))∧∀x(¬P(x)∨¬Q(x))
∧∀x∀y(P(x)∧Q(y)⇒¬x=y∧x≦y)
⇒∃z∀x∀y(P(x)∧Q(y)⇒x≦z≦y)
をアトム命題として追加したものです。このようにして区体論的Dedekind実数論は既に出来ています。
なお、この方法はあらゆる形式的体系に適用出来ます。例えば、ZFC集合論に適用して区体論的ZFC集合論を展開できます。方法は同様で、区体論の公理系に
∀x(¬x∈φ')
∀x∀y(x=y⇔∀z(z∈x⇔z∈y))
などのZFC集合論の公理系をアトム命題として追加すれば良いです。
注意すべきは、区体論的ZFC集合論では、ZFC集合論的な包含関係 ⊂' :
x⊂'y⇔∀z(z∈x⇔z∈y)
と、区体論的な包含関係⊂が一致しない事です。また、
∀x(x∈Ω), ∀x(x⊂'Ω)
はどちらも証明不可能です。
全く同様にして、各変数の述語記号を区体論に追加する事で、区体論的1階述語計算も展開できます。
これら区体論的**論は**論と同等の能力を持っています。即ち、**論で証明される論理式は区体論的**論でも証明可能ですし、区体論的**論で証明される論理式であって、**論における記号以外を持たないものは**論で証明可能です。なので、これらに証明論的な差はありません。ただ、**論の全ての論理式が区体論的**論のアトム命題として実現されるので、南堂さんの言うような「変数の曖昧さ」は無くなります。
──
以上が、今井の確認したことである。(この文書では、その詳細は示されない。)
要するに、公理8の区体論に基づいて、通常の数学を構築できる。その手順は、集合論に基づいて、通常の数学を構築するのと同じ手順である。
かくて、集合論も、区体論も、どちらも通常の数学を構築できる。その意味で、集合論と、区体論(公理8)とは、等価な理論である。
集合論と、区体論(公理8)とは、等価な理論である。
では、「等価である」ことへの評価はどうか? 肯定的評価と否定的評価が得られるだろう。
肯定的に見れば、「数学を構築するための別の方法が得られた。とても興味深い」というふうに判定できる。
否定的に見れば、「どっちも同じ成果を与えるから、同じものが二つも必要ない。区体論なんて、あってもなくても同じだ。形式化の方法が違うだけで、何ら新しい成果をもたらさないのだから」というふうに判定できる。(「無意味だ」ということはないにせよ、「有益だ」ということもない。)
実を言うと、このような問題は、歴史的に次のことが言える。
等価な結論を出す二つの理論がある場合、その評価は、二通りに分けられる。
第1に、両者が数学的にまったく同等である場合。この場合は、見た目が違うだけで、内容的にはまったく同じことを言っていることになる。とすれば、数学的なアイデアの興味だけがある。たとえば、フェルマーの定理の証明の過程では、「同じ事柄がまったく別の形で表現される」というアイデアがあり、これがブレイクスルーとなった。また、しばしばいわれることであるが、「方程式を解くのに、代数的な方法と幾何学的な方法がある」ということもある。……こういうふうに、同じ概念を二通りで表現できるということには、数学的に興味深い。
第2に、両者が(理論として)似て非なる場合。この場合、ある範囲では両者は一致するが、その範囲を超えると両者は異なる。……そして、実は、集合論と区体論の関係は、こちらに当てはまる。集合論と区体論は、ある範囲では一致するが、その範囲を超えると異なる。このことについては、すぐあとで詳しく説明する。
区体論は、公理8をもつ区体論のほかに、公理9をもつ区体論も考えられる。前者は、「点実数論」を構築し、後者は「無限小実数論」を構築する。
公理8のある区体論は、数学を構築するが、そこで構築される数学は、従来の数学とほとんど同じである。つまり、実数までの濃度でなら、差はまったく現れない。せいぜい、実数を越える濃度で、差が現れるだけだ。両者は、結論はまったく同じであり、形式化の方法が違うだけだ。
しかし、すでに Part3や PartExp で示したとおり、区体論では、公理8のかわりに公理9を取ることで、無限小を得ることができる。そして、ここにこそ、区体論の真価がある。だから、
「公理8の区体論は、たいして役立たない」
という批判は、ピンボケであるのだ。それは、たとえて言うと、こうである。
「相対論は、光速よりもずっと低い速度では、古典力学とまったく同じ結論を出す。ゆえに、相対論は、無意味である。古典力学だけあればいい」
これはまったくピンボケである。光速よりもずっと低い速度の現象でなくて、光速に近い速度の現象にこそ、相対論の真価はあるからだ。
区体論も同様である。区体論は、可算や点実数論では、(公理8によって)集合論と同じ結論を出す。しかし、区体論の真価は、公理8よりも公理9にある。公理8も取れるが、公理8も公理9もどちらも取れるというところに、意義がある。とすれば、公理8の区体論だけを見て、「集合論と同じだ」と結論するのは、ピンボケの評価であるのだ。
なお、この結論を得る根拠は、次のことだ。
「従来の集合論の方法で得られるのは、点実数論だけである。(無限小実数論は得られない。……少なくとも、公理的には得られない。)」
では、なぜ、そう結論できるか? 区体論から、次のことが結論できるからだ。
「正表示形の区体論では、公理8と公理9は、背反的な関係にある。どちらか一方のみを取ることができて、双方を同時に取ることはできない」
このことから、次のことがただちにわかる。
「公理8の区体論は、公理9の区体論と両立しない」
このことは、おおまかには、次のことを意味する。
「公理的な点実数論は、公理的な無限小実数論と、両立しない」
というわけで、公理的な点実数論である従来の数学では、公理的な無限小実数論を構築できないわけだ。
( ※ ただし、公理的でなく、モデル的になら、両立は可能だ。直感的に言えば、点実数の世界と、無限小実数の世界とを、合体させたモデルを構築できる。「無限小の海のなかで、ところどころに点が浮かんでいる」というイメージで理解される。とはいえ、モデル的にはできても、公理的にはそういうものは構築しがたい。……なお、この件は、数学的な定理とか命題とかいうより、感覚的におおざっぱに漠然と感じておくだけでいい。厳密に議論すべきような話題ではない。)
公理9とは、何か? どのように形式化されるか?
この問題には、長らく頭を悩ましてきた。基本的な概念は「二分割できること」であるが、それを形式的に表現するとなると、いろいろと難しい問題が出てくるからだ。
特に問題なのは、「無限小とアトムが混在した空間」を、どう扱うかだ。そのような混在する空間は、それはそれで実数というものを構築できるから、あえて排除する必要はなさそうだ。かといって、排除しないとなると、形式化が困難になる。
あちらが立てば、こちらが立たず。こちらが立てば、あちらが立たず。そういうふうに困った状態にあった。
ただし、次節に述べる「閉じた空間」という概念をうまく利用することで、公理9としては、考えられるうちで最も単純な形で表現することが可能となった。その形式化を、以下で示す。
公理9は、いくつかの形で書かれるが、いずれもまったく等価である。
最も標準的な形は、次の公理だ。
(#A)[ A≠φ ⇒ β(A)⊂A ∧ β(A)≠φ ∧ β(A)≠A ]
ただし、本質を明らかにする(見通しを良くする)ために、別の表記法も取る。ここではあらかじめ、記号 << を定義しておく。
(#A)(#B)[A << B ⇔ A⊂B ∧ A≠φ ∧ A≠B ]
この記号を使って、「 A << B 」と書いたとき、「A は B の真部分である」という。その意味は、読んで字のごとしである。
この記号を使うと、公理9は、次の形に書き直される。
(#A)[ A≠φ ⇒ β(A) << A ]
つまり、空でない区体 A には、真部分 β(A) が存在する。
ここで公理7を組み合わせると、次のことが成立する。
(#A)[ A≠φ ⇒ [β(A) << A ∧ A=β(A)∪β(A)^]]
つまり、Aが空でない限り、Aを β(A)とβ(A)^ とに、2分割できる。
こうして、次のことが示されたわけだ。
「空でない区体は、必ず、二つの区体に分割できる」
これが、公理9である。
公理9とは何かを理解するには、公理8と対比するといい。
すぐ前に述べたとおり、公理9の意味は、次の通りだ。
「空でない区体は、必ず、二つの区体に分割できる」
一方、公理8の意味は、次の通りだ。
「空でない区体のうちは、必ず、二つの区体に分割できない区体が存在する」
だから、公理9と公理8とは、それぞれ、次のことを主張する。
・ 公理9 …… 空でない区体には、アトムが存在しない。(必ず)
・ 公理8 …… 空でない区体には、アトムが存在する。(必ず)
両者は、まったく反対のことを主張している。それゆえ、この両者は、(公理としては)両立しない。
なお、以上では文章で説明したが、数式で説明すれば、以下のようになる。
まず、公理を見よう。
公理8では、空でない区体のなかに、アトムが必ず存在した。
(#A)[ A≠φ ⇒ α (A)@A ]
つまり、
(#a)(#A)[a@A ⇔ a⊂A ∧ a≠φ ∧ (#X)[X⊂a⇒X=φ∨X=a]]
公理9では、空でない区体が、必ず二分割できる。
(#A)[ A≠φ ⇒ β(A) << A ]∧[ A=β(A)∪β(A)^]]
つまり、
(#A)[ A≠φ ⇒ β(A)⊂A ∧ β(A)≠φ ∧ β(A)≠A ∧[ A=β(A)∪β(A)^]]
両者を比較すると、公理8では、最後に
(#X)[X⊂a⇒X=φ∨X=a]
という条件がある。その意味は、
「アトムにおいては、公理9が成立しない(真部分が存在しない)」
ということだ。とすれば、
「公理9が成立するならば、そこにはアトムが存在しない」
と言える。
要するに、公理9の世界とは、
「アトムが成立するとは限らない空間」
ではなくて、
「アトムが存在してはならない空間」
なのである。つまり、
「分割不可能な点が存在するとは言えない空間」
ではなくて、
「分割不可能な点がひとつも存在してはならない空間」
なのである。
以上のことからわかるように、公理9の成立する空間とは、
「いくらでも分割可能な空間」
のことである。そのイメージは、
「粒が存在せず、どこまでもなめらかな液体状の空間」
である。そこには液体だけがあり、粒状の点はひとつも存在しない。実際、仮にアトムが一つでも存在したなら、そのアトムについて公理9が成立しなくなってしまうので、矛盾する。
前項のことからわかるように、公理8と公理9は、両立しない。つまり、双方はたがいに背反する関係にある。一方を取ると、他方を取れない。
そこで、「公理8のかわりに公理9だけを取る」という体系を、新たに構築しよう。
まず、両者をはっきりと区別するために、異なる言葉で呼ぶことにする。
公理9の成立する数学空間を、「連続区体空間」(略称 CW )と呼ぶ。
一方、公理8の成立する数学空間を、「標準区体空間」(略称 NW )と呼ぶ。
単に「区体空間」と呼んだときには、両者をひっくるめて考える。ただし、文脈により、どちらか一方であってもいい。ここまでの話では、単に「区体空間」と呼んだときには、公理8の成立する数学空間であることが多かった。
なお、「連続区体空間」という言葉を使うとき、この「連続」の意味は、「連続濃度」(実数の濃度)という意味で解釈してもいいし、解析学的な「なめらかな」という意味で解釈してもいい。どちらにしても、結果的にはほぼ同じことになる。(そのことは以後の説明で明らかになる。)
連続区体空間を、(公理8の空間とはっきり区別して)明示的に記すには、Ω のかわりに Θ という文字を使うことにする。ただ、文字は違うが、意味はほとんど同じである。すなわち、次の通り。
・ 公理1〜7では、Ω のかわりに Θ を代入する。
・ 公理8では Ω だけがあり、公理9では Θ だけがある。
このようにして、Ω と Θ とで、異なる記号を用いることで、それぞれの数学空間が異なることを明示する。なぜそうするかという理由は、このあとで明らかにされる。
区体論で記述される体系は、数学全体の世界ではなくて、特定の限定された空間だけである。このことによって、公理8の空間と公理9の空間を、たがいに区別する。
区体論の発想では、複数の数学空間が想定される。このことは、集合論の発想とは異なる。
集合論の発想では、ただ一つの数学空間が想定され、そこで集合論の公理系が成立する。
同様に、述語論理の発想では、ただ一つの論理空間が想定され、そこで述語論理の公理系が成立する。
では、集合論の数学空間と、述語論理の論理空間とは、同じなのか違うのか? そのことは、はっきりとしない。そもそも、「体系全体の空間」というものが、体系内で記述できないのだ。
たとえば、「集合論全体の数学空間」を W という記号で示したとする。そこにおける濃度を χ(W) と書いたとする。すると、W が集合であるとした場合、べき集合公理により、 χ(W) よりも高い濃度ができてしまって、困る。そこで、「Wは集合ではなくて、クラスだ」というふうに言い逃れる。では、「クラス W については、べき集合公理が成立するのかしないのか?」……このようなことを考えていくと、矛盾は生じないようにすることはできるが、何が何だか、はっきりとしなくなってしまう。少なくとも、「すっきりと納得が行く」というふうにはならない。どうにも、事情が曖昧なのである。
そこで区体論では、この難点を避けるために、空間全体をはっきりと記号で明示することにした。そのための記号が Ω または Θ である。(別の記号を使ってもいいのだが、とりあえず、ここでは、この記号を使う。お好みで、別の記号を使っても構わない。肝心なのは、「体系全体を記号で示すことができる」ということだけだ。)
このように「体系全体」としての数学空間を一つの記号で明示したあとで、この内部で、理論のすべては構築される。具体的には、次のことだ。
(1) 公理が適用されるのは、この数学空間の内部だけである。
(2) この数学空間の外に、無限に拡散していくことはない。
この二点について説明しよう。
(1) 公理が適用されるのは、この数学空間の内部だけである。
このことは、次の二つの意味がある。
「述語論理が適用されるのは、この数学空間の内部のみである。」
「区体論の公理系が適用されるのは、区体(X⊂Ω となる X )のみである。」
これらについては、この文書の先の方で、前述した。(述語論理との関係)
(2) この数学空間の外に、無限に拡大していくことはない。
このことは、次の意味がある。
「区体空間全体について、公理4(Ω⊂Ω)が成立する。」
これは、「区体空間全体もまた区体である」ということを意味する。すると、次のことがわかる。
・ 「X⊂Ω」から、Ωはあらゆる区体の上界に相当する。(すぐ前の(1)による)
・ この上界は、それ自体、区体である。
かくて、次のことが結論される。
「Ωは、区体のなかの最大元(あらゆる区体のなかで最大の区体)である。」
「どのような区体も、Ωに含まれる区体である。」
つまり、次のことが言える。
「区体空間 Ω の外にはみ出る区体は、ない」
以上の (1) (2) という性質をもつ空間を「閉じた空間」と呼ぶことにする。区体空間は、「閉じた空間」である。
「閉じた空間」という概念を使うと、何か便利なことがあるだろうか? 実は、一つの空間を扱う限りは、特に便利さはない。体系外との境界を特に意識することなく、「体系全体」というものを考えればいいからだ。もちろん、集合論であれ、述語論理であれ、その体系自体を考える限りは、その体系全体の範囲をいちいち考慮する必要はない。
差が出るのは、体系外別の空間を考慮する場合だ。それは、次の場合だ。
「複数の数学空間が共存する」
具体的には、次の場合だ。
「公理8の体系と、公理9の体系」
この二つの体系は、背反する。たとえば、次のような数学空間を想定しよう。
「公理8と公理9がともに成立する体系」
この空間では、背反する公理8と公理9がともに成立するゆえに、矛盾が生じる。ゆえに、このような数学空間は、存在しえない。
この問題を回避するには、次のようにすればよい。
「公理8の成立する空間を Ω と書いて、範囲を限定する。公理9の成立する空間を Θ と書いて、範囲を限定する。両者の範囲は重ならないものとする」
こうすれば、公理8の成立する世界と、公理9の成立する世界とが、別々の領域に存在するだけだから、矛盾は生じない。
ただし、このような区別ができるには、次のことが前提となる。
「公理系の全体となる数学空間が、閉じた空間であること」
こうして、前項で述べた「閉じた空間」という概念が有効であることが判明した。
( ※ なお、集合論の発想では、「閉じた空間」という概念が成立しないから、本項で述べたような区別をすることは、原理的に不可能である。)
公理8と公理9は、どちらか一方しか成立しない。ただし、そのどちらでもない空間も、別途、想定できる。それは、こうだ。
「公理8も公理9も成立しない数学空間」
このような数学空間は、公理8にも公理9にも抵触しないので、十分に成立できる。ただし、単に「公理8や公理9が成立しない」とするだけでは、面白くない。面白いのは、次の場合だ。
「公理8と公理9が、部分的な範囲でのみ成立する数学空間」
これを理解するには、次のことをあらかじめ理解しておく。
・ 公理8の数学空間 …… 公理8が体系内の全領域で、必ず成立する。
・ 公理9の数学空間 …… 公理9が体系内の全領域で、必ず成立する。
一方、次のような数学空間も想定される。
・ 混在する数学空間 …… 公理8と公理9が体系内の一部でのみ成立する。
具体的には、次のようなモデルをイメージ的に想定するといい。
「液体状の世界に、点状のものが、ぽつぽつと浮かんでいるような空間」
ここでは、液体状のものについては公理9が成立し、点状のものについては公理8が成立する。
換言すれば、液体状のものについては公理8が成立せず、点状のものについては公理9が成立しない。というわけで、公理8も公理9も成立しない。……そういう空間が想定できる。
このような空間を、「混在的な空間」と仮称しよう。(この文書における一時的な名称。)
さて。混在的な空間があるとしたら、そこにおいて、実数を構築できるか? 一応、構築できる。そのためには、点をうまく除去して、点以外の部分だけを取ればよい。(詳しい話は面倒になる。 → 詳細 )
ただし、「点以外の部分をうまく取る」という操作をするには、何らかの特別な手間が必要だ。その手間が、よくわからない。
実は、この問題が、これまで「公理9の形式化」を阻んでいた理由だ。すでに述べた形の公理9を採用した場合、混在的な空間については、実数をうまく構築できない。そのことが、いささか具合が悪い、と思えたのだ。
前項の問題については、うまい解決の方法が見つかった。それは、こうだ。
「公理の適用範囲を限定して、複数の数学空間を想定する」
古い発想では、「実数を構築できる空間」として、唯一の空間を想定してから、そのなかで、実数と構築するための公理を導入しようとした。
新しい発想では、「実数を構築できる空間」として、複数の空間を想定してから、そのなかの特定の一つの空間で、実数と構築するための公理を導入する。
この方針では、同等の公理系を満たすたくさんの空間が作られる。たとえば、Θ という空間は唯一のものではなくて、同じ公理系を満たす数学空間として、Θ1 や、Θ2 や、Θ3 などもある。
つまり、公理9のある公理系は、普通の公理系とは違って、「公理図式」と呼ぶべきものであるのだ。(複数の体系が次々と作り出されるから。)
ただし、そうすることができるには、次のことが必要だ。
「それぞれの数学空間が明白に区別されること。(別の記号で書けること)」
それはつまり、
「公理系で規定される数学空間が閉じた空間であること」
である。こうして、「閉じた空間」という概念が、役に立つ。
ここまでの話をまとめよう。
区体論の発想では「閉じた空間」という概念がある。そのことは、区体の定義や公理系(特に公理4)によって規定される。閉じた空間は、たがいに区別される。
公理8の空間と公理9の空間とは、別のものとして区別される。ここでは、「閉じた空間」という概念が利用される。(さもないと、体系が混在して、矛盾が生じる。)
公理9の成立する空間も、公理図式によって、たくさん生じて、それぞれの空間がたがいに区別される。
以上のことを踏まえて、次のことを考慮する。
「公理8の成立する空間や、公理9の成立する空間や、混在的な空間など、さまざまな数学空間を構築できる。ただし、そのなかで、公理9の成立する特定の空間を選んで、これを、実数を構築するための空間とする」
この数学空間を R と書くことにしよう。以後、実数を構築するには、この R という数学空間のなかでのみ考察すればよい。
その際、R のなかでは、公理は最も単純な形で書かれればよい。それが、公理9だ。
仮に、特定の領域に限定された R のかわりに、もっと広い領域のものを採用したならば、公理9はもっと複雑な形に書き直されねばならない。広い領域では、いろいろと複雑な事情がある(たとえば点が共存することがある)から、余計な要素を取り除くための手順が必要となる。
一方、R がもともと(点が共存しないように)純粋化されていれば、実数を決めるための公理をシンプルな形に書くことができる。そうしてシンプルに書かれた公理が、公理9である。
こうして、公理9は、Part3ではまだ簡明な形で形式化されてはいなかったが、本文書では簡明な形で形式化されるようになったわけだ。──「閉じた空間」という概念を使うことで。
公理9を導入したあとで、いよいよ、実数(無限小実数)を構築することにしよう。そのためには、公理9だけでなく、他の公理も必要となる。ともあれ、その手順を示す。
以下では、実数(無限小実数)を構築する手順を示す。
ただし、注意してほしい。ここで示すのは、おおまかな方針のみである。また、この方針に基づいて、実際に形式化が具体的な手順で済んでいるわけではない。その意味で、形式化は完了していない。理論としても、未完成である。
すでに形式化が済んでいるのは、公理8に基づく「点実数論」のみである。公理9に基づく「無限小実数論」は、現時点では未完成である。この点は、注意のこと。
ただし、「未完成」ということは、「完成しない」ということを意味しない。「完成の見込みがない」ということも意味しない。完成する見込みは、ほぼ百パーセント近い。なぜか? それは、次の二点による。
(1) 公理8と公理9は背反的な関係にある。
(2) 公理9による無限小実数論は、イメージ的にモデルを創造できる。
この二つのうち、(1) のことゆえに、公理9に基づく実数論は、公理8に基づく実数論に比べて、明らかに異なる実数論になることは明らかであろう。仮に、まったく別の基礎理論から、まったく同じ結論が得られるとしたら、あまりにも途方もないことになるからだ。
・ Aという公理をもつ公理系
・ 非Aという公理をもつ公理系
この二つがまったく同じ結論を出すとしたら、「Aかつ非A」が矛盾を起こさない、ということになる。そんなことは、ありえない。
というわけで、(1)のことゆえに、公理9に基づく体系は、公理8に基づく体系に比べて、明らかに異なる体系となる。しかも、その違いが実数の分野で現れることは、ほとんど自明であろう。(自然数ないし有理数の濃度では、もともと数学的[数論的]には差が現れないはずだからだ。)
この二つのうち、(2) のことも重要である。公理9に基づく実数論がどういうものであるかは、おおまかに予想がつく。公理9の意味は、「任意の区体が、いくらでも二分割できること」であるから、ある一つの区体空間を取ったとき、その区体空間を無限回、二分割できることになる。そこから得られるモデルのイメージは、「無限小からなる空間」である。
こうして、公理8に基づく「点実数論」のかわりに、公理9に基づく「無限小実数論」がおおまかに予想される。あとは実際に、この手順を具体的に実行していくことだけだ。それは決して不可能なことではないはずだ。
公理9に基づく「無限小実数論」を構築するためには、公理9だけでは不足する。つまり、公理9以外に、他の公理も必要とする。
この件については、先にも示したように、次の図式が参考になる。
一般数学 一般数学
| |
集合論(基盤) 区体論+ ζ
|
区体論
一般数学では、集合論の上に、ただちに一般数学が形成される。たとえば、自然数を構築するには、別途、ペアノ公理を要しない。
区体論では、区体論の上に、さらに別の公理( ζ )を追加して、その上で、一般数学が形成される。区体論だけで済むわけではない。 ζ で示されるような、別の公理が必要となる。では、別の公理とは?
第1に、自然数を構築するためには、無限公理(ペアノ公理に相当する公理)が必要だ。
第2に、有理数を構築するためには、四則演算の規則が必要だ。特に、乗算に対する逆元としての「分数」の概念が必要だ。「小数」の概念は、ここでは必要ない。
第3に、有理数を幾何学的に展開して「有理数直線」の概念を導入することが必要だ。そのためには、幾何学の概念を導入するために、「分配法則」を公理として導入することが必要となるだろう。包含の意味を体系に導入するには、分配法則が必要となるはずだからだ。(「分配法則を分出公理から導き出す」という方法もあるが。しかしやはり、分出公理とは別に、分配法則を単独で公理として導入する方が良さそうだ。……この点、はっきりとはしないが、ただの手続き上の問題にすぎない。公理化の手順においてダブりがあっても、別に差し支えはない。)
さて。ここまでは、公理8に基づく「点実数論」でも、公理9に基づく「無限小実数論」でも、同様である。ただし、この先が異なる。
公理8に基づく「点実数論」では、「下から構成する」という方法を取る。すなわち、「点をたくさん集めて、実数全体を構成する」という方法だ。そこでは、「べき集合公理」に相当する公理が必要となるだろう。
公理9に基づく「無限小実数論」では、「上から構成する」という方法を取る。すなわち、「空間全体を分割して、それぞれの無限小を構成する」という方法だ。そこでは、分割のための公理が必要となる。ただし、その公理は、公理9だけでは力不足だ。
では、なぜ、公理9だけでは、力不足か? それは、次のことによる。
「公理9だけでは、実数の連続性をもたらせない」
公理9がもたらすのは、実数濃度のもの(連続濃度の無限小)の「存在性」だけだ。そうして存在性が示されたものが、実数のように連続している保証はない。
ここで、「連続性」という言葉で対比されるのは、「断続性」ではなくて、「分散性」である。
比喩的に言おう。DNAでは、さまざまな塩基が連続的につながっている。一方、DNAを分解すると、これらの塩基はバラバラになって、溶液中に分散してしまう。その場合、塩基は、消滅してしまうわけではない(数が変わるわけではない)のだが、位置的にバラバラになってしまうのだ。
この比喩が、実数についても当てはまる。
公理9で示される実数は、単に存在性が示されるだけであり、そのままでは空間的にバラバラに存在していても構わない。たとえ空間的にバラバラに存在していても、四則演算などは問題なく実施できる。(代数的に)
ただし、このような実数がDNA状の塩基のように一列に並んでいると、実数全体を幾何学的に扱うことができるようになる。こうして「一列に並んだ実数」を「実数直線」と呼ぶ。
実数全体は、もともとは「バラバラに分散してもいいもの」であるから、それをことさら「一列に並べる」という処理をするためには、何らかの公理が必要となる。そこで、新たな公理が必要となる。(このことをなさないと、実数直線が構築できないので、実数を四則演算で扱うことはできても、微積分で扱うことができなくなる。それでは不便だ。)
では、「実数全体を一列に並べる」という処理のためには、どんな公理が必要か? そのことは、実は、厳密には判明していない。ただし、ダブりを許容して、「あれもこれも」という形で公理を次々と導入するならば、実数を構築するための公理をいろいろな仕方で導入できる。
・ 集合論における、整列可能定理(選択公理に等価)
・ 集合論における、デデキントの切断
・ 集合論における、コーシー列
これらの概念を(ダブりを許容して)あれもこれもと導入していけば、「実数全体を一列に並べる」という処理も可能となるだろう。(おおまかな予測。)
前項では、いくつもの方法を示した。ただし、そのいくつもの方法を、実際に「公理」として導入する必要はないだろう。必要なのは一つだけであり、他は「定理」として導き出されるだろう。
では、「公理」となるのは、何か? それは、おそらく、「実数の連続性」を核心的に示す公理である。その公理の意味は、「無限小が分散して存在しないこと」である。(断続性の否定ではなくて、分散性の否定。)
この公理を、とりあえずは、「連続性の公理」と仮称しよう。(まだ提出されたわけではないが、提出されると予想して。)
では、連続性の公理とは、どのようなものか? 数学的にはたぶん、「デデキントの切断による実数の連続性」や「コーシー列による実数の連続性」と、等価なものであろう。とはいえ、区体論では、もうちょっとはっきりした形を取るはずだ。
概念的には、次のように考えるといい。
公理9では、二分割を次々と実施していく。それを次々と実施して、名称を与えると、次のように名称を付けることができる。(最初を Θ と書く。)
/
00
/ \
0 /
/ \ 01
/ \
Θ /
\ 10
\ / \
1
\ /
11
\
このようにして、 0110011 というような区体を得ることができる。この処理をn回だけ実施すれば、n桁の数値列を得ることができる。このnを無限に増やすと、無限小ができると予想される。(ここまでは、PartExp でも示したとおり。)
さて。こうしてできた 0110011 というような区体は、その一つの区体が空間的に分散している可能性がある。そこで、そうならないように、規定したい。(そのための公理が、「連続性の公理」である。)
では、どうやって規定するか? おおまかには、次のように規定するといいだろう。
まず、 0110011 というような区体を「n桁の微小区体」または単に「微小区体」と呼ぶことにしよう。これは無限桁ではなくて、有限のn桁をもつ数字列で示されるような、区体である。この概念を用いて、次のように表現する。
「ある微小区体 x に含まれる任意の微小区体 y および z を取ったとき、y および z が必ず空間的に接近していること(近傍にあること)」
これは、意味的には、いわゆる ε−δ 論法を、区体論の形で焼き直しているだけである。ともあれ、このことから、「微小区体が空間的に分散していること」は否定される。なぜなら、仮に微小区体が空間的に分散していたら、距離的に D という距離で離れていることになり、それだと、「空間的に接近していること」という条件に反するからだ。
この方針のもとで、形式化の処理をすると、「連続性の公理」が明白に定まるだろう。(これは、区体論の公理ではなくて、無限小実数論の公理である。)
公理9の体系で実数を構築するためには、「連続性の公理」があるだけでは、まだ足りない。次のことが必要となる。
「2のn乗分割の処理を、一挙に行なうこと」
2のn乗分割は、公理9によってなされる。ただし、この処理を、「1回また1回」というふうにやっていくと、n回の処理しかできないので、可算回の処理しかできない。つまり、2のn乗に分かれる枝のうち、特定の一系列の枝について「1桁 → 2桁 → 3桁 → ……」というふうに進むだけである。しかるに、実際には、あらゆる系列の枝について、2のn乗分割を一挙になす必要がある。
換言すれば、2のn乗分割は、「n回なす」のではなくて、「n段なす」必要がある。段階がnなのであって、回数がnなのではない。
では、そのためには、どうするか?
ここで、おそらく、分配法則が役立つ。分配法則は、次のことだ。
(A∪B)∩C=(A∩C)∪(B∩C)
ここで、次のように当てはめる。
A=0
B=1
A∩C=00
B∩C=10
すると、こうわかる。
「 0 および 1 という微小区体に対して、Cという区体との共通部分を取ることで、 00 および 10 という二つの区体を得ることができる」
ここで、Cという区体を、元の区体のなかの真部分(公理9によって得られる区体)であると見なすといい。すると、次のことがわかる。
「元の区体に対して、二分割された区体AとBがあるとする。このとき、AとBに対して公理9を適用して、AとBの中にある真部分 C という区体を、公理9によって得る。すると、分配法則を使うことで、A∩CとB∩Cを一挙に取ることができる」
ここでは、一回の処理で、A∩CとB∩Cを一挙に取ることができる。かくて、冒頭に述べた課題は、解決される。
( ※ ここで述べたこととは、あくまで、方針である。厳密な形式化の手順が実際になされているわけではない。ともあれ、原理的には、難点は解決できる見込みが立った。)
公理9は、「空でない区体は必ず二分割できる」という空間の存在を示した。
では、このことで、実数は規定されるか? 実は、そうは言えない。実数を規定するには、まだ不十分なのである。
直感的に言えば、公理9で規定されたのは、基数であって、序数ではない。一方、実数は、序数である。とすれば、公理9の他に、他の公理も必要となる。
では、それは、どんな公理か? 次の二つの点から、力不足を埋める必要がある。
前項では、2のn乗分割が可能であることは示された。ただし、そこで示されたnは、実際には「任意のn」であり、有限のnである。「無限」または「可算」を意味しない。たぶんそのせいだろうが、このままでは次の難点があることががわかる。
「実数ではなくて有理数全体を取っても、任意のnに対して、2のn乗分割が可能である」
このことが今井によって指摘された。というわけで、前項のままでは、まだどこかが不足していることになる。
この問題を解決するには、「任意のn」を「無限」または「可算」にまで拡張する必要がある。そのためには、たぶん、数学的帰納法が必要となるだろう。ただし、数学的帰納法は、区体論の世界では、まだ定義されていない。その定義が先決となる。その形式化は、かなりやっかいになりそうだ。(まだ実現していない。)
では、数学的帰納法を使えば、「任意のn」を「無限」または「可算」にまで拡張できるか? それはまだ判然としていない。できるかもしれないし、できないかもしれない。できない場合には、さらに、何らかの方法ないし公理を導入する必要があるかもしれない。
このあたりは、いろいろと調べることが必要だろう。その意味で、厳密な形式化は、まだ片付いていない。かなり大量の手続きが必要である。
とはいえ、これらの手続きは、既存の数学(集合論に基づく数学)の方法を、適当に援用していけば、解決できそうだ。ことさら大きな問題があるとは思えない。かなり技巧的な方法を必要とされそうなので、数学的には難問の部類に入りそうだが、まったく解決が困難だというほどのこともあるまい。フェルマーの大定理やリーマン予想のような、とんでもない大問題というほどではあるまい。比較的容易に解決ができるだろう。(予想だが。)
というわけで、ここまでの話で、「無限小実数論」の構築法については、あらましを述べたことにある。この方針で、将来的には、「無限小実数論」は十分に厳密に形式化されるだろう。
なお、「最初から十分に厳密に形式化されている必要がある」という必要はない。実を言うと、数学の歴史では、次のことがある。
「集合論に基づく形式化も、長らく不十分であった。それが曲がりなりにも十分になされたのは、ブルバキによる形式化がなされた時点(20世紀後半)である。」
「21世紀になった現時点でも、ブルバキによる形式化は不十分なままである。実数概念ぐらいなら十分だが、関数概念については、不明確なところがいくつも放置されて未解決なままである。」
つまり、「数学を厳密に形式化する」という課題は、集合論の世界においても、かつては不十分であったし、現時点でもまだいくらか不十分なのである。が、だとしても、「形式化が不十分だから、数学全体を捨ててしまえ」ということにはならない。いくらかは不十分なところがあっても、納得できる度合いが十分にあれば、その理論は「信頼できる」という扱いを受ける。
だから、集合論による数学と、区体論による数学を比較したとき、両者の比較は、次のようにはならない。
「集合論による数学は、厳密に形式化されているが、区体論による数学は、厳密に形式化されてはいない」
かわりに、次のようになる。
「集合論による数学も、区体論による数学も、どちらも形式化の程度は不完全である。ただし、前者の方が、歴史が長いおかげで、完成度がずっと高い」
とはいえ、数学の世界の外から見れば、
「集合論による数学も、区体論による数学も、どちらも形式化の程度は十分である。うるさいことは言わない。細かいことはどうでもいいから、さっさと実用のために利用したい」
というふうになりそうだ。その場合は、無限小を取る区体論を採用して、「無限小解析」を使えば、解析学はずっとシンプルに表現できるはずだ。
現在、大学の数学の講義では、解析学において、「ε−δ」の論法を使うことが多い。それというのも、その方法だけが厳密な方法であると見なされているからだ。しかしながら、無限小解析の方法を取れば、もっと簡便な方法で表現することができるだろう。(桁数を上げることで範囲を狭める、という方法。PartExp でも示したとおり。)
[ 補足 ]
これで、実数の構築の方法については、説明を終える。なお、以上はあくまで、手順をおおまかに示したものである。「確からしさ」は十分にあるが、厳密に形式化が済んだわけではない。そのことは、あらためて、強調しておこう。
ただ、形式化が不十分だとしても、「形式化ができていないぞ」と問題視するには足らない、と思う。そのことも強調しておこう。なぜか? ここで示していることは、「定理の証明」とは事情が異なるからだ。
定理の証明であれば、「定理の成立」と「定理の不成立」は、どちらの同じぐらい可能性がある。通常、どちらであっても、体系が破綻するわけではないからだ。(体系が破綻することがあらかじめわかっているなら、その定理はすでに証明されたも同然である。)
一方、本節(無限小実数論の構築)では、「分野の確立」が課題となっているだけだ。ここでは、「確立がすでに済んでいる」または「確立がまだ済んでいないか」という違いだけがあり、「確立ができない」という可能性はほとんどない。たとえば、
「公理9の区体論からは、無限小実数論を構築できない」
という命題も考えられなくはないが、この命題が成立する可能性は、ほとんどゼロである。その理由は、次の通り。
・ 集合論ですでに「超準解析」という無限小実数論が確立済み。(非公理的だが)
・ モデル的に無限小の空間をイメージできる。(2のn乗分割の極限として)
これほどはっきりとした姿がある理論分野が、「まったく成立しない」ということは、とうていありえないことだ。
ただ、とうていありえないとはいえ、「絶対にありえない」とは言えない。「無限小解析を構築できない」という可能性も、ごくわずかながらある。ただし、そのことが事実だとしたら、それこそ、驚天動地の事実が判明したことになる。
「区体論では無限小実数論を構築できる」
というのは、あまりにも当り前の結論であり、正しいと証明されても、たいして大きな話題とはならないが、
「区体論では無限小実数論を構築できない」
としたら、それこそ、数学の世界がひっくりかえってしまうほどの大事件となる。その方がよほど大きな話題となるだろう。(ただし、そうなる可能性は、ほとんどゼロだ。少なくとも私は、その可能性を信じていない。つまり、無限小実数論は、きっと構築できるはずだ。いつか、誰かによって。……ただし、特別な数学的操作は、なされないだろう。かなり平凡な操作によってなされるだろう。だから、そのことを実現しても、あまり大きな成果にはなりそうもない。)
区体論について書くべきことは、すでにあらかた書き終えた。あとは、書き落としたことを、落ち穂拾いふうに書き足しておこう。
区体論の完全性については、修正すべきことがある。
以前の記述では、「正表示形の区体論は完全である」というふうに述べた。しかしこれは、完全な間違いとは言えないまでも、かなり不正確であった。正しくは、次のように言える。(今井の指摘。)
「区体論(正表示形)は、有限の範囲では完全だが、自然数論を含むと不完全になる」
たとえば、濃度が1の体系は完全だが、濃度が可算である体系は不完全である。
ここで、「完全であること」の根拠は、ここでは省略する。
一方、「不完全性であること」の根拠は、ゲーデルの定理をそのまま適用すればよい。
( ※ いずれにせよ、区体論についての、周辺的な話題である。区体論自体の信頼性が揺るぐわけではない。なお、集合論は、あらゆる意味で完全性が証明できない。というのは、もともと無限の濃度を含むからだ。区体論のように、「有限の濃度に限定する」ということは、もともと想定されていない。)
区体論の位置づけをしよう。そのために、集合論と比較してみる。
(1) 数学基礎論として
まず、おおまかな位置づけをすれば、数学との関係がある。これについては、先に示したとおり、次の図式で示せる。( ※ 下方のものが土台となり、その上に、上方のものが位置する、という意味。)
一般数学 一般数学
| |
集合論(基盤) 区体論+ ζ
|
区体論
すなわち、集合論と区体論とは、直接的には比較されない。集合論と比較されるべきものは、区体論に他の公理を加えたもの(区体論+ ζ )である。この ζ は、追加されるべき公理である。それにはたとえば、濃度の公理(無限公理など)などがある。これらの公理は、必須というわけではなく、取りはずすことも可能である。(たとえば有限濃度の数学的空間を構築することもできる。)
従来の発想では、「数学基礎論」と呼ばれるのは、集合論の箇所だ。となると、その体系では、「無限」を含むことは必須であり、「有限だけ」という数学空間を構築することは(原則的には)できない。仮に、「有限だけ」という数学空間を構築するとしたら、そのような公理系(部分的な集合論の公理系)を採用することになる。としたら、ZFという体系のほかに、ZFに似てZFよりも力不足である体系がいくつも存在することになる。そういうのは、不自然だ。(数学基礎論がいくつも存在することになる。)
一方、区体論の発想では、区体論の体系(公理8または公理9の区体論)だけがある。そして、この体系に、 ζ となるような公理を適当に追加することで、さまざまな数学空間をいろいろと構築できる。……この場合には、「数学基礎論」と呼ばれる体系は、公理8または公理9の区体論だけがある。(無限公理などを含む区体論は、区体論自体ではなくて、その上にある数学的な体系である。)
(2) 数の理論として
すぐ前の (1) のことから、数の理論としても、位置づけが異なる。
・ 集合論 …… それ単独で、自然数も実数も構築できる。
・ 区体論 …… 追加する公理によって、さまざまな数の体系を構築できる。
ここで、区体論に追加すべき公理としては、次のような公理が考えられる。
・ 有限の公理 (具体的にいくつかの有限の数を規定する公理)
・ 可算の公理 (ペアノ公理に相当する公理)
・ 連続の公理 (実数を構成するための公理)
この三つの公理のどれを取るかによって、有限・可算・連続のうちのどれか一つを取る。
( ※ ただし、連続の公理を導入するためには、あらかじめ可算の公理を用意しておくことが必要だ。また、連続の公理を導入するためには、公理8の空間と公理9の空間を区別できることを、あらかじめ示しておくことが必要だ。そのためには、「閉じた空間」という概念が必須となる。さもなくば、二つの空間が入り交じってしまうので、そこにおいて矛盾が生じる。)
(3) 現実との関係
現実との関係を考えよう。現実の世界には、個物を数えるための「1,2,3,……」という自然数も存在するし、距離や時間を計るための「1.0000……」というような実数(小数)も存在する。これらは、数学の空間と、どういう関係にあるか?
このことは、次の図式で示せる。
<集合論>
数学世界 ( = 自然数世界 + 実数世界 + 他 )
|
[現実世界]
<区体論>
自然数世界(Ω) 実数世界(Θ)
\ /
[現実世界]
まず、集合論の発想では、こうだ。
「数学世界に、自然数と実数がともに含まれる。そして、この数学世界全体が、現実世界と対応する」
一方、区体論の発想では、こうだ。
「数学世界としては、自然数の世界(Ω)と、実数の世界(Θ)が、それぞれ別個に存在する。また、Ωに相当する空間はたくさんできるし、Θに相当する空間もたくさんできる。これらのたくさんの数学空間の全体が、現実世界に対応する。
この二つの発想は、根源的には、すぐ前の (1)(2) における差から生じる。(詳しい理由は省略する。あまり厳密な話ではないので、おおまかに理解しておくだけでいい。)
区体論とは、結局、どういう意義をもつのか? この疑問については、以下のように答えることができる。
(1) 二つの道
「数学を構築するのに、二つの道があることを示した」
数学を構築する方法としては、従来、集合論という理論による方法だけがあった。この方法によらずに数学を構築することはできない、と思えた。集合論はあらゆる数学の基礎である、と思えた。
しかし、そんなことはないのだ。集合論に代わって、もう一つ、別の理論がある。その理論を使っても、数学を構築することができる。──そう示したわけだ。
(2) 等価性
公理8を取る区体論から得られる数学は、集合論から得られる数学と、まったく同じである。形式化の方法は異なる(無限公理を体系内に含むかどうかというような手順の違いもある)のだが、方法の違いを別とすれば、結果的に得られる結論は、まったく同じである。
なお、このことは、特に不思議でもない。区体論はもともと、現在の数学を構築できるように、導入されたものだ。換言すれば、もともと違いが出ないように、公理系を定めたものだ。仮に、「何らかの違いが出る」と判明したとしたら、区体論は理論の構築に失敗したことになる。つまり、「数学の構築」という狙いに失敗したことになる。たとえば、既存の数学で得られる結論を出すことができなかったり、既存の数学では誤りとなる結論を出すことになる。……そういうことがあっては、まずい。
だから、「両者が等価である」というのは、ごく当たり前のことだ。もともとそうなることを狙いとして公理系を定めたからだ。
(3) 拡張
区体論は、その一部である公理8を排除して、公理9をかわりに加えることで、これまでの数学とは異なる世界を構築できる。(それが無限小実数論だ。)
公理9から得られる数学は、部分的には、従来の集合論とは食い違う。ある意味では、「間違い」のように見えなくもない。
ただし、「公理8の区体論」+「公理9の区体論」というふうに、二つの体系をひっくるめて見れば、「区体論」という体系は、集合論を含み、集合論よりも広いものとなっている。その意味で、「区体論の体系は、集合論の拡張だ」とも言える。集合論で扱う領域を越えた領域を扱うからだ。その領域が無限小の領域だ。これは従来の数学では、公理的には扱えない。モデル論的には扱えるが。
( ※ なお、この件については、本文書でも先に「相対論と古典力学」などの比喩でも述べた。また、「補足解説編」でも、同じようなことを述べた。)
「区体論は集合論に比べて、研究課題となるか?」
という疑問がある。この疑問には、次のように応えることができる。
「公理8の体系では、集合論と比べて、特に差はない。『公理系が簡明だ』というぐらいのメリットしかない。」
「公理9の体系では、集合論と比べて、明らかに差がある。公理9の体系は、区体論だけにあり、集合論にはない体系だからだ。(未完成ではあるが。)」
この二つのことは、どう受け止められるか? 立場によって、異なるだろう。立場とは、「数学基礎論の立場」と「一般数学の立場」だ。この違いから、評価には、次のような差が生じるだろう。
(1) 数学基礎論の立場
数学基礎論の立場で見れば、区体論は明らかに研究対象となる。同じ結論を出すものとして、二つの数学基礎論があるとすれば、そのどちらも研究対象となる。
たとえば、量子力学者にとって、波動力学や行列力学やファインマン力学など、さまざまな扱い方があるとすれば、これらのものはいずれも、学問的な研究課題となる。ここでは、「結論がいずれも同じだ」ということが重要だ。さもなくば、どれか一つだが正しく、他のものは正しくない。とすれば、他のものは、研究課題とはならずに、捨てられてしまう。
「同じ結論を出す複数の理論がある」
という状況であればこそ、それらはいずれも研究課題となる。
( ※ なお、このことは、集合論や論理学でも同様である。これらの学問分野では、たがいに等価であるさまざまな公理系が提出され、研究課題となる。)
(2) 一般数学の立場
一般数学の立場の立場で見れば、区体論は、研究対象とならない。なぜなら、一般数学の立場では、数学基礎論は、研究対象ではなくて、利用するべき道具にすぎないからだ。(これはまた、数学者と工学者との違いでもある。数学者は、未解明の数学の課題を学問的に研究する。工学者は、解明された数学的成果だけを道具として利用する。)
以上の (1)(2) を換言すれば、次のようにも言える。
(1) 数学基礎論の研究者
あなたが数学基礎論の研究者なら、区体論は興味深い研究対象となるだろう。なぜなら区体論は、「既存の理論とは異なる理論」であるからだ。
ここでは、理論としての完成度は問題ではなく、むしろ、理論としての未完成さが興味のマトとなる。未完成であればあるほど、研究課題ができるからだ。いわば「山があるゆえに、山に登る」というふうに。
(2) 普通の数学者
あなたが普通の数学者なら、区体論は役立たずの道具となるだろう。なぜなら区体論は、「いまだ完成していない発展途上の理論」であるからだ。
普通の数学者にとっては、数学基礎論は、学問的な研究対象ではなくて、ただの道具であるにすぎない。役に立つ道具なら使うし、役に立たない道具なら使わない。役に立ちそうでも、未完成である限りは、危なっかしくて、使えない。いわば「危険な未踏の高山には昇りたくない。十分に整備されている安全な山だけに昇りたい」というふうに。
この(1)(2)の、どちらであってもいい。数学基礎論の研究者としての立場を取ってもいいし、普通の数学者としての立場を取ってもいい。どちらにするかは、本人しだいだ。
ただし、どちらであってもいいが、双方の「つまみ食い」(おいしいところ取り)は、あってはならない。たとえば、こうだ。
「未解明であると同時に、解明されている」
これは、「研究課題がたくさんあり、豊かな研究成果を出せる」という意味では「未解明」であり、「すでに重要な問題はすべて解決していて、安心してその分野に踏み込める」という意味では「解決済み」である。──こういうのは、「高い未踏の山であり、と同時に、低い安全な山である」というのを望むようなものだ。矛盾した態度である。
しかしながら、こういうのを望む研究者は、けっこういる。あげく、区体論について、「悪いところ取り」をして、批判することもある。
「区体論は、未解明なところがあるから、安心して扱えない」
「区体論は、数学的に安心して利用できる保証がない」
これはいわば、「高い山は、低い山のように、安全ではない。ゆえに研究したくない」という理屈である。しかし、「高い山は、低い山のように、安全である」という条件が満たされたときには、区体論はもはや解明済みなのだから、さして研究課題とはならないのだ。区体論がすっかり解明されたあとで、「じゃ、安心して、ぼくも研究しよう」と思ったとしても、そのときにはもはや、区体論の領域は踏破しつくされてしまっているから、研究するべき領域はほとんど残っていないのだ。
区体論は未完成である。だからこそ、研究課題となる。──そのことを、はっきりとわきまえておこう。「区体論は未完成である」というような批判は、「研究対象は未解明のものである」という理由で批判するのと同じである。それはいわば、「この定理はまだ証明されていないから、研究したくない」というのと同じである。たとえば、こうだ。
「フェルマーの大定理は、まだ証明されていないから、研究したくない。あれやこれやの定理も、まだ証明されていないから、研究したくない。僕が研究したいのは、もはや完璧に証明された定理だけである」
しかし、完璧に証明された定理など、もはや研究課題とはならない。──そのことに気づかないのが、上記のような批判者だ。
( ※ ただし、区体論は、「未解明だ」とはいえ、「まったく未解明だ」というわけではない。公理8の区体論については、もはや十分に解明されていると評価できる。解明されていないのは、公理9の区体論の方である。)
「区体論は役に立つか?」
という疑問がある。これについては、二つの観点から答えることができる。
(1) 完成度
理論的な完成度を問題にするなら、区体論は集合論よりも、完成度が低い。だから、完成度だけを問題にするなら、区体論を利用する意味は、あまりない。
特に、公理8の区体論を使う場合には、「公理系が簡明になる」ということを除いては、さして大きなメリットはない。「高校生でも扱えるような簡便な公理系である」問いのは、それはそれデメリットにはなるが、そこから得られる体系全体の範囲は、原理的には集合論の場合と同様であるから、あまり大きなメリットはない。
( ※ ただし、「簡明な理論」というのは、利用者にとっては、とても大きなメリットがあるとも言える。どうせ計算をするなら、面倒な計算をするよりは、簡単な計算の方が、ずっと楽だからだ。……とはいえ、これはこれで、別の話。)
(2) 範囲
理論の広さを問題にするなら、区体論は集合論よりも、範囲が広い。その理由は、こうだ。
・ 公理8の区体論は、集合論の範囲と同等。
・ 公理9の区体論は、集合論の範囲の外にある。
当然、公理9の区体論は、集合論の範囲では扱えないようなことを扱えるようになる。その具体的な例が、無限小実数論だ。無限小実数論は、集合論ではモデル論的に扱うだけで、公理的には扱えないが、区体論では公理的に扱える。(前述。)
なお、以上のことから、次のような判断をする人もいる。
「区体論は、無限小実数論を公理的に扱えるとしても、区体論はそのことをまだ確実に構築していない。ゆえに、区体論は、有益ではない。有益ではないから、研究対象とはならない」
ここでは、議論が堂々めぐり(無限循環)をしている。次のように。
研究しない → 未解明 → 不確実 → 研究しない
これは、「石橋をたたいて渡る」という態度である。しかし、そういう態度を取る限り、あらゆる新分野は、開拓されないだろう。新分野というものは、ほとんど未解明の領域について、最初の開拓者がどんどん道を切り開いていったからこそ、その領域が開けたのだ。最初の開拓者が「道はまだ開けていないから進みたくない」と思ったら、永遠にその領域は切り開かれないままだ。
だから、新しい領域を開拓するときに必要なのは、「石橋をたたいて渡る」というのとは正反対の態度だ。つまり、こうだ。
「そこに山があるから、そこに登る」
「そこに未開拓の領域があるから、その領域を切り開く」
とはいえ、それは、誰にでもなせることではない。開拓者となれるのは、ごく少数の、冒険心のある人々だけである。冒険心のない大多数の人々は、何もしないでいい。ただじっと待機して、見守っているだけでいい。その間に、少数の開拓者たる人々が、冒険心を発揮して、未知の領域を切り開く。そのあとで、大多数の人々は、開拓者のあとから、開拓者の切り開いた道を踏んでいけばいいのだ。……そうすれば、安全確実である。(ただし、成果として得られるのは、せいぜい落ち穂拾いぐらいだろうが。)
それでも、虫のいいことを望む人は、多いだろう。
「安全確実で、かつ、成果の多い分野はないか?」
と。実は、ある。
区体論(公理8)で描写される世界は、集合論で描写される世界と、原理的には同じである。ただし、区体論では、独自の道具が使われている。その独自の道具だけを使うことで、新しい分野を切り開くこともできる。
それは何か? 「準関数の世界」である。
区体論には「準関数」という概念がある。このことを利用して、新しい数学モデルを作ることができる。それは、次のモデルだ。
「個物がたがいに区別されない数学空間」
これは、区体論の用語では、「アトムがたがいに区別されないこと」に相当する。そして、このことは、特に操作しなくても、もともとそうなっている。たとえば、区体空間 Ω として、二つのアトムからなる区体空間を取ったとき、その二つのアトムを区別する方法はない。(新たに何らかの定義または公理を導入するまでは、その二つのアトムを区別できない。)
一方、集合論では、どうか? 上記の命題は「集合の要素がたがいに区別されないこと」に相当する。しかし、このことは、一般には成立しないだろう。空集合から次々と新たな集合を構成していったとき、それらの集合には濃度の差が現れる。となると、当然、それぞれの集合を(濃度の観点から)区別することができる。 ……仮に、それぞれの集合を区別しないとしたら、何らかの新たな条件を追加する必要が生じる。しかも、その条件は、「もともと区別できるものを、区別しないものとして扱う」というふうな、不自然な条件である。
具体的な例を言おう。次の例がある。
「量子力学の量子」
量子力学の世界では、扱われる量子は、「たがいに区別されないもの」である。たとえば、次の例がある。量子としての電子は、たがいに区別されない。電子に a,b というふうな名前を付けることはできない。
一方、集合論では、そういうふうには処理しない。どの要素も、必ず、a,b というふうな名前を付けることができる。名前を付けた上で、「同等に扱う」という処理をするだけだ。
ところが、区体論では、電子をもともと「たがいに区別されないもの」「名前を付けることができないもの」として扱う。
とすれば、量子力学の数学モデルを作るときに、集合論を使うよりも区体論を使う方が、うまくモデルを作れるのだ。
さらに言えば、一般的に確率的な空間を作るときにも、同様のことが言える。次のように。
「サイコロの目を確率的な事象として考察する」
「熱力学で分子の動きを確率的な事象として考察する」
これらの場合には、考察対象たる分子などについて、「たがいに区別できないもの」として扱うべきだ。とすれば、最初から区体論の発想を取った方が、ずっと自然に話が進む。
では、そのことで、具体的に何らかの成果が出るだろうか? 出る。その例は、次の文書で示した。
→ 超球理論
ここでは、量子を「たがいに区別できないもの」として扱うことで、量子を「粒子としての性質と波としての性質をもつもの」ということを、根源的に説明することができている。そして、その理由は、量子力学において区体論の発想を導入したからなのだ。
つまり、区体論の発想を取り入れることで、量子力学の課題をクリアすることができるようになるのだ。これは区体論の一つの応用例である。
では、より広い範囲では、どうか? 区体論は、数学一般について、集合論よりも豊かな成果を出せるだろうか?
実は、この問題は、問題自体が間違いだ。その理由は、先に述べた図式からわかる。
一般数学 一般数学
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集合論(基盤) 区体論+ ζ
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区体論
集合論の発想では、「数学の基盤たる集合論は、なるべく豊かな内容をもつ方がいい」となる。
区体論の発想では、「数学の基盤」たるのは、「区体論」ではなく、「区体論+ ζ 」である。それが豊かな内容をもつか否かは、 ζ として追加される公理しだいである。 ζ として、次から次へと、多くのものをつぎこめば、それだけ豊かな基盤ができる。とはいえ、それは、「区体論」自体の問題ではない。「区体論+ ζ 」の問題である。
では、区体論の役割は、何か? こうだ。
「『区体論+ ζ 』という基盤が、なるべく豊かな基盤となること」
これは、次のことと、等価である。
「区体論そのものは、必要最小限のものにとどめる」
つまり、核となる区体論が最小限のものであるからこそ、そこに追加される ζ は多様なものとなれる。比喩的に言えば、こうだ。
「カスタマイズパソコンでは、最小構成となるものが少なければ少ないほど、カスタマイズの幅が広がる。逆に、最初から多くのものが必然的に備わっていると、カスタマイズの幅が狭まる。」
「着せ替え人形では、最初に着ているものが少なければ少ないほど、着せ替えるものの選択肢が増える。逆に、最初から多くのものを必然的に着ていていると、着せ替えの幅が狭まる。」
集合論の発想では、「集合論があらかじめ豊かであること」を要求する。
区体論の発想では、「区体論があらかじめ豊かであること」を要求しない。むしろ逆に、「区体論があらかじめ豊かでないこと」を要求する。その理由は、「『区体論+ ζ 』を、なるべく豊かにするため」である。
この二つの発想の違いを理解しよう。勘違いをしてはならない。──たとえば、次のような理解は、勘違いである。
「区体論は測度を扱えないから、役立たずである」
あるいは、こうだ。
「区体論は、それ単独では、自然数や包含関係についても扱えないから、役立たずである」
これは勘違いである。区体論は、それらのものを「扱えない」のではない。「あえて扱わない」のである。そして、その理由は、「『区体論+ ζ 』がいっそう豊かになるため」だる。
ここでは、「区体論が貧しければ貧しいほど、区体論を使って得られる結果は豊かにになる」ということが、成立する。そして、それが一見「逆説」のように見えるのは、そう思う人の心が集合論ふうの心になっているからだ。そのせいで、集合論と区体論という二つものを、比較してはならないのに比較してしまうのだ。正しくは、集合論に比較すべきものは、区体論ではなくて、「区体論+ ζ 」であるのだが。……ここを勘違いしてはならない。
一方、同じことを錯覚する(誤解する)人もいる。具体的な例を示そう。次のような批判がある。
「区体論は、測度を扱えない」
「区体論は、実数を扱えない」
「区体論は、自然数を扱えない」
これらはすべて、正しい。区体論は、それ自体は、数学の基盤であって、数学ではない。区体論は、それ単独では、速度も実数も自然数も扱えない。その意味で、数学としては、まったく非力である。
ただし、この非力さが、逆に、強みとなる。なぜなら、いくらでも自由に公理を追加できるからだ。そして、公理を追加した段階で、「区体論+ ζ 」が、数学の空間を構築する。次のように。
「区体論+ ζ は、測度を扱える」
「区体論+ ζ は、実数を扱える」
「区体論+ ζ は、自然数を扱える」
ここで、 ζ とは、何か? もちろん、場合ごとに異なる。順序は逆になるが、すでに述べたことから、次のことがわかる。
・ 自然数の構築 → 無限公理が必要。
・ 実数の構築 → 分配法則(公理)や連続性の公理が必要。
・ 測度論の構築 → 測度についての公理または定義が必要。
(部分集合に相当するもの・直積・関数などについて。)
このように、 ζ として、区体論以外の別のものが必要となる。だから、「区体論」を「区体論それ単独」と解釈するならば、
「区体論は、****を扱えない」
という批判は、正しいが、
「区体論+ ζ は、****を扱えない」
という批判は、正しくないわけだ。
両者の違いを理解しよう。両者を混同しないように注意しよう。しかるに、世の中の多くの批判は、たいていこのような混同から発する。
ついでに言っておこう。実は、集合論もまた、それ単独では、測度や確率や群などを扱えない。なぜなら、これらの概念を扱うには、その数学空間を構築するための、何らかの公理が必要となるからだ。(たとえば測度としての確率を扱うには、確率の公理が必要だ。)
集合論の信者は、「集合論さえあれば、何でもできる」と思っているようだが、とんでもない錯覚である。集合論だけあっても、まともな数学空間は作れない。まともな数学空間を作るには、さまざまな公理を導入して、さまざまな数学空間を構築する必要がある。実数の公理やら、群の公理やら、確率の公理やら、ベクトル空間の公理やら。……そして、そういう構築の過程は、区体論では「 ζ を導入すること」というふうに定式化される。ただ、集合論では、 ζ に相当するものが、集合論の世界にもまぎれこんでいるせいで、集合論それ自体が数学の一部であるかのように錯覚されてしまうのである。
区体論は、そうではない。区体論は、数学ではなくて、数学の基盤である。だから、「区体論は数学としては非力である」というような批判は、その批判自体が、基本的な錯覚をおかしていることになる。
話を根源に戻そう。そもそも、区体論とは、何なのか? その概要を示す。
まず、最初にあったのは、集合論への疑問である。集合論では、(実数濃度=連続濃度を越えるような)超限濃度の基数が必然的に生じる。これは現実のこの世界を描写するには不自然である。なぜなら、「超限濃度が存在してもいい」のではなくて、「超限濃度が必ず存在しなくてはならない」というふうになっているからだ。しかるに、現実には、そんな超限濃度はどこにも見出されないし、また、そんな超限濃度は存在しないと見なしても、普通の数学はちゃんと構築できる。
では、この問題を回避するには、どうするか? もちろん、集合論とは別の発想から、根本的に考え直すといいだろう。そこで生じたのは、次のことだ。
「物の集まりをひとまとめにする(一つのものと見なす)ことをやめる」
集合論では、複数の物の集まりをひとまとめにして、一つの集合として扱う。そのような操作をやめる。複数の物の集まりを、集合に転じることなく、複数の物の集まりのまま扱う。これはつまり、
「 ∈ という記号を使うことをやめる」
ということだ。
では、そのかわりに、どうすればいいか? そこで立てたのが、次の方針だ。
「 ∈ および ⊂ という二種類の記号を使うことをやめて、 ⊂ という一種類の記号だけを使う」
これが新しい方針だ。そして、この方針のもとでできた理論は、ブール代数にきわめてよく似た理論となった。
ただし、これは、不思議でも何でもない。「反射率」「推移律」という基本原理を導入すれば、あとは必然的に、ブール代数に似てくるはずだからだ。
ただし、ブール代数には、「アトム」の概念がない。そこで、さらに「アトム」の概念を「公理8」として追加した。── こうして、区体論の骨格ができた。
さて。以上の話を振り返ってみよう。すると、根源には、次のような発想がある。
「記号と対象とを区別する」
これは、普通の発想では、当然のことである。たとえば、「カラス」とか「リンゴ」とかいう言葉では、その言葉自体と、その言葉で示される対象とは、別のものだ。
逆に言えば、同じ対象に対しても、異なる言葉を付けることができる。「リンゴ」と呼ばれたものを、「Apple」と呼ぶこともできる。こうして、言葉と対象との区別が、可能となる。
このような区別は、普通の数学でも、もちろんなされる。たとえば、次のように。
ともあれ、最後に、まとめて言おう。区体論は、集合論と比較して、次の意義がある。
「パラダイムの変更をする」
ここで、「パラダイム」というのは、科学哲学の用語で、「発想の枠組み」というようなことを意味する。一般に、科学の大きな転換点では、「パラダイムの変更」があった。たとえば、次のように。
・ 天動説 → 地動説
・ 古典力学 → 相対論
・ 古典力学 → 量子力学
これらの転換点では、「パラダイムの変更」があった。そこで変更されたのは、「発想の枠組み」である。
一方、理論から得られる結論は、ほとんど変わらなかった。古い方のパラダイムに立つと、その99%ぐらいは維持された。違いはほとんどなかった。違いは、せいぜい、次のことぐらいだ。
・ 天動説 …… 火星の軌道
・ 古典力学 …… 光速度に近い速度
・ 古典力学 …… 量子のように小さな質量や距離
これらの例外を除けば、ほとんどの場合において、従来の結論はほとんどそのまま維持された。だから、従来のパラダイムからすれば、「新しいパラダイムなんか、何の役にも立たない。不要だ」という評価を出して、「地動説」「相対論」「量子力学」などを否定する結果となっただろう。
一般に、新しいパラダイムの有益性は、古いパラダイムからは目に見えないものだ。目に見えるのは、古いパラダイムにとって限界的な領域のみである。その例が、上記の三つの例だ。また、集合論でいえば、次の二つの例だ。
・ 実数濃度(連続濃度)を越える、超限濃度
・ 無限小という極微の領域
こういう限界的な領域でのみ、集合論と区体論との違いが現れる。それ以外の99%の領域では、違いは現れない。かくて、古いパラダイムにとっては、新しいパラダイムというものは、ほとんど役立たずに見えるのである。
実際、歴史的にも、そうだった。地動説が初めて登場したときにも、相対論が初めて登場したときにも、量子力学が初めて登場したときにも、新しいパラダイムはまだほとんど現実的な成果を挙げていなかったから、ほとんど役立たずに見えた。
とはいえ、たとえ役立たずに見えても、理論的な興味を感じる人々が、開拓者として、研究を進めて、学問領域を広げていった。だからこそ、今日では、相対論や量子力学は、非常に豊かな成果を挙げるに至ったのだ。
そして、その歴史的な転換点では、「パラダイムの変更」があったのである。それは何らかの未知の真実を発見したという意味ではなくて、すでにずっと存在していた現実を認識する発想法を変更するという意味だ。
( ※ 「相対論と古典力学」という比喩的な比較については、この文書でも先の方で、すでに述べたことがある。また、「補足解説編」でも、述べたことがある。「相対論」という語で検索できる。)
前項では、区体論の意義として「パラダイムの変更」を示した。では、「パラダイムの変更」は、いったい何をもたらすか? ── それに答えるには、一見矛盾に満ちた答え方をするしかない。すなわち、こうだ。
「パラダイムの変更は、何ももたらさないがゆえに、多くのものをもたらす」
もう少し正確に言えば、こうだ。
「パラダイムの変更は、その時点ではほとんど何ももたらさないが、将来的には多くのものをもたらす可能性がある。ただし、その可能性は、その時点ではまだ見えない」
このことを以下で説明し直そう。
一般に、定理の証明などは、既存の知識に何か新たな知識を追加する形でなされる。それたはたいてい、普通の人よりも頭の良い人が、高度な知恵を発揮する形でなされる。複雑な高度な理論が駆使されることが多い。
一方、「パラダイムの変更」は、そうではない。複雑な高度な理論が駆使されるというよりは、発想が根本的に転換する。
それはいわば、「コロンブスの卵」ふうである。言われてみて、納得すれば、「何だ、そんなことか」と思うが、言われるまでは、誰も気がつかない。また、新たに示されたその発想は、複雑な高度な理論ではなく、むしろ、簡単でわかりやすいものだ。── そして、そのせいで、「何だ、そんな簡単なものか」と軽蔑されやすい。
しかし、ここでは、新たなものは、簡単でわかりやすいことを、あえて狙ったものなのだ。なぜなら、真実というものは、常に単純な原理であるからだ。とはいえ、原理は単純でも、その原理が人々の常識にはなかなか合致しないのである。
例として、相対論がある。この原理は、「光速度が一定」および「相対性」という、単純な二つの原理からなる。それはあまりにも単純な原理だ。ただし、その原理は、人々の常識にはうまく合致しない。そのせいで、誰もがその原理を思い浮かばなかった。また、いったん示されたあとでも、なかなか納得しなかった。
区体論も同様である。その理論は、高度で難解だということはなく、簡単でわかりやすい。公理系は、集合論の公理系に比べれば、ごく簡単だ。……ただし、それは、低級であるからではない。あえて簡単であることを狙ったから、簡単なものになったのだ。
ただし、この簡単さを選るには、「パラダイムの変更」が必要だった。つまり、発想の転換が。── では、どんな? 実はそれを、本サイトの最初( Part1)で述べた。すなわち、こうだ。
集合論では、そもそも最初に、「物の集まり」を考えた。それが素朴集合論の発想である。しかるに、それを形式化した公理的集合論では、「物の集まり」を考えるかわりに、「集合の集まり」を考えるようになった。── つまり、よって立つ地点から、離れてしまった。
そこで、その発想を改めて、原点たる発想に回帰することにしたい。すなわち、「物の集まり」を扱う発想に回帰することにしたい。これは《 原点回帰 》の立場である。
ここで、問題が生じる。「物の集まり」を扱うとき、「集合と要素」という発想を取る限りは、 ∈ という記号を使うことになる。当然、 ∈ および ⊂ という二通りの記号を使うことになる。その場合は、必然的に、公理的集合論に至る。他の道はない。
だから、最初の発想において、「集合と要素」という発想を取ることをやめる。かわりに、「集合と要素」を区別しない発想を取る。(いわばコロンブスの卵のように。)
その場合、「集合と要素」を区別しないので、両者を区別しないでできた、ただ一通りのものだけがある。それが「区体」だ。そして、その包含を扱うために、 ⊂ という一つの記号だけを使う。
まとめて言えば、区体論の特徴は、次の二つだ。
・ 物の集まりを扱う。
・ 形式化するときには、「集合と要素」という区別をなくす。
この二つは、それぞれ、次のように説明される。
区体は、それ自体は形式的な数学概念だが、記号としては、現実のものに対応して、現実の物を意味することができる。たとえば、アトムである a ,b ,c などを、一つ一つのカラスやリンゴなどと見なすことができる。(集合論ではそうは行かない。)
区体は、どれもが平等である。つまり、「単数のアトム」と「複数のアトムの集まり」が、集合論の「階型」のような上限関係を持たない。
区体論には、上記の二つの特徴がある。区体論とは、上記の二つの特徴をもつような公理系だ。ここに区体論の核心がある。簡単に言えば、こうだ。
「区体論は、『物の集まり』を扱う理論である。一方、集合論は、最初は『物の集まり』を扱う理論であったはずだが、最終的には『集合の集まり』を扱う理論となった」
もちろん、区体論であれ、集合論であれ、どっちにでも数学を構築することはできる。ただし、どっちでも数学を構築することはできるにせよ、それぞれの過程は異なるのだ。いわば、同じ頂点(= 数学の構築)に達するのに、二つの道があるように。
結局、区体論を理解するために留意すべき態度は、こうだ。
「原点回帰」
歴史的に見れば、集合論は、素朴集合論から公理的集合論へと、どんどん発展していった。しかし、その過程では、集合論はどんどん原点から離れてしまった。最初は「物の集まり」を基礎としていたのに、いつのまに、「物の集まり」を扱わない理論になってしまった。いくら役立つ理論になったとはいえ、原点から離れてしまったのだ。それは「真実から離れる」ことのようもも見える。
そこで、「原点回帰」を打ち出したのが、区体論だ。区体論では、「物の集まり」を扱うという原点に立ち返る。ただし、この原点に立ち返るには、集合論の常識を捨てる必要がある。すなわち、「集合と要素」という基本的な発想を。
それは、あまりにも常識はずれのことに思えるから、従来の発想からは理解しがたい。それゆえ、ここでは、発想を根本的に切り替えることが必要となる。── それが「パラダイムの転換」だ。
そして、いったん「パラダイムの転換」をなせば、あとは話はごく簡単に進む。集合論では多大な手間をかけて、簡単な命題を説明することもあったが、区体論では、ごく簡単に、簡単な命題を得られる。(たとえば、「反射率」や「推移律」だ。これらは、もともと公理の形で入っているから、証明する手間すら必要ない。)
ただし、どんなに簡単でわかりやすくて便利な理論であるとしても、普通の人々は、「パラダイムの転換」に抵抗する。そこで、「真か偽か」あるいは「簡単か複雑化」という数学的な価値判断を取るかわりに、「役立つか役立たないか」という価値判断を持ち出す。その場合、既存の理論は既知の物であるがゆえに「役立つ」と判定され、新たな理論は発展途上であるがゆえに「役立たない」と判定される。
つまり、「役立つか役立たないか」という価値判断は、次のトートロジー(同語反覆)と同じである。
「古いものは古い」(既存の物は既知である)
「新しいものは新しい」(未完成の物はまだ完成していない)
そして、トートロジーは、常に絶対的に正しい。かくて、論者は、「自分は絶対的に正しい」と言い張ることができる。というわけで、天動説であれ、地球は平らだという説であれ、「役立つか否か」という観点からすると、古い理論が「絶対的に正しい( or 偉い)」と見なされてしまう。
というわけで、本項では、「役立つ」という概念のかわりに、「パラダイムの転換」という概念を持ち出したわけだ。新しい理論にとって大切なのは、「役立つ」ということではなくて、「新しい」ということそれ自体なのだ。役立つか役立たないかなど、学問的にはどうでもいい。学問的に大切なのは、学問の領域を広げることであり、学問のフロンティアを開拓することだ。それは、未知の領域に踏み込むということだ。
ここで必要なのは、フロンティアスピリット(開拓者精神)だけであり、「役立ちますか」「もうかりまっか」というような実用的な銭勘定ではないのだ。── だからこそ、私は何度も、強調するのである。「パラダイムの転換」という概念を。
「役立つ」という概念のかわりに、「パラダイムの転換」という概念の方を、重視すべきだ、と前項で述べた。が、だとしても、それは「区体論が役立たない」ということを意味しない。むしろ、逆だ。前項冒頭の言葉を繰り返せば、こうなる。
「パラダイムの変更は、何ももたらさないがゆえに、多くのものをもたらす」
では、具体的には、どんなことがあるか? それは、「数の理論」としての有益性だ。
まず、根本から考えよう。
集合論は、「包含の理論」である。ブール代数も、一応、「包含の理論」である。一方、区体論は、(分配法則を含まない公理1〜8では)「包含の理論」ではない。では、区体論は、何か? 「数の理論」である。
区体論は、「自然数」や「実数」などの「数」を構築する。ここで重要だ。
さて。この説明に対して、次の批判が成立するかもしれない。
「数を構築するだけならば、区体論を必要としない。たとえば、自然数を構築するだけならば、ペアノ公理だけがあればいい」
その批判は、正しい。確かに、自然数を構築するためだけなら、区体論を必要としない。ただし、そこで構築された自然数は、われわれが日常的に理解する意味の自然数とは、少し違う。ペアノ公理による自然数は、抽象的な自然数としての意味があるだけで、現実の世界の「1,2,3……」という数とは、必ずしも一致しないのだ。
そこで、区体論が登場する。すると、ペアノ公理によって与えられた「自然数」という概念に、「意味」を与える。それは「物の集まり」に対して与えられた意味だ。それというのも、区体論が「物の集まり」を扱う理論だからだ。
区体論を使うと、「自然数」には、次の二通りの意味が与えられる。
・ 物の個数 (基数)
・ 物の順序 (序数)
この二つの概念は、まったく異なる意味をもつ。次のように。
・ 基数: 1個 , 2個 , 3個 ……
・ 序数: 1番目 ,2番目 ,3番目 ……
この二つの概念の区別は、重要だ。前者は、複数のアトムの集まりについての個数であり、後者は、単数のアトムの配置の順序のことだ。この二つの概念は、明らかに異なる。
ところが、集合論では、この二つは区別されない。1,2,3……という数は、基数であると同時に、序数である。だから、次のように書ける。(前出)
1⊂2⊂3⊂4⊂5……
1∈2∈3∈4∈5……
なぜか? 集合論では、「物の集まり」を一つにまとめるせいで、「点の集まり」もまた「点」のように扱われるからだ。
普通は、集合論の発想で、特に問題ないと思われている。しかし、数学的に形式的には問題ないとしても、解釈的・意味的には不自然である。実際、日常世界では、
・ 基数: 1個 , 2個 , 3個 ……
・ 序数: 1番目 ,2番目 ,3番目 ……
という二つの概念は、区別されている。これは必要な区別だ。しかるに、集合論に従う限り、その区別がなされない。
この区別がなされないと、「数とは何か」ということを、はっきりと理解できない。しかるに、「理解できない」というこをと、集合論の範囲では、自覚しにくい。そこで、区体論の立場から、そのことをはっきりと指摘しておこう。
まず、通常の数学(集合論の数学)では、次のように信じられている。
「自然数を、実数に拡張できる」
しかしながら、区体論でば、そういうことはない。かわりに、次のことが言える。
「序数としての自然数は、実数に拡張できる。しかし、基数としての自然数は、実数に拡張できない」
具体的に言えば、こうだ。
「直線状に並べられたアトム(序数)については、二つのアトムの中間的な位置を想定できる。たとえば、2番目と3番目の間に、『2.5番目』という位置を想定できる。つまり、序数としての自然数を拡張することで、実数を想定できる。しかしながら、基数としての自然数については、同様のことはできない。アトムについて『2.5個』というような個数は想定されない」
これは重要なことだ。そして、ここでは、「何かができる」ことが重要なのではなくて、「何かができないこと」「何かが禁じられていること」が重要なのだ。なぜ? 「できないこと」が判明するからだ。その意味で、真実をよりよく知ることができるからだ。
ここでは、「何らかの役に立つこと」が大事なのではなくて、「真実をよりよく知ること」が大事なのだ。そして、その具体的な例は、次のことがある。
量子力学では、「量子」という概念がある。これは、古典力学とは対比されて、次のように表現されることがある。
「エネルギーはとびとびの値しか取れない」
たとえば、単位エネルギーを e と書くと、 1e ,2e ,3e ,…… というような値しか取れない。
すると、物理学者は、不思議に思う。
「どうして、とびとびの値だけを取るのか? 古典力学ふうに考えれば、自然は連続であると思えるのに、どうして連続にならず、断続的になるのか? 中間的な値を禁じるような、どのような原理があるのか?」
そして、この原理を探ろうとして、あれこれと頭をひねったりする。「中間的な値を取ることを禁じる原理」というものを、何らかの特別な物理学的な原理だと見なして、そこに働く作用を探そうとする。
しかしこれは、集合論ふうの発想による理解から生じた疑問(誤解に満ちた疑問)にすぎない。なぜか? そこでは、次のことが前提となっているからだ。
「エネルギーの値は、連続的になるはずだ。なぜなら、数は、連続的であるからだ。例えば、自然数は、実数のうちのとびとびの値にすぎない」
しかるに、区体論の発想では、次のようになる。
「序数と基数とは、区別されるべきだ。序数には、中間的な値が必ず存在するが、基数には、中間的な値はなくて自然数だけがある」
この発想からすれば、次のことがわかる。
「量子力学で、とびとびの値を取るように見えることがある。そのときには、そこで与えられる数値が、アトムの位置を示す数ではなくて、アトムの個数を示す数であるのだ。エネルギーの順序がどれだけかということを示しているのではなくて、エネルギー単位がいくつあるかという個数を示しているのだ」
こう理解すると、次のことが結論できる。
「エネルギーがとびとびの値しか取れない、というのは、もともと中間的な値が存在しないからだ。ここでは、何らかの原理によって、中間的な値が禁じられているわけではない。だから、中間的な値を禁じる原理を探そうとしても、無意味だ。」
たとえて言おう。人間は、1人、2人、3人……というふうに数えることができる。そして、2.5人というふうには数えられない。ここでは、「2.5人」という数を禁じる原理があるわけではない。もともと「2.5人」という数は存在しないのだ。たとえば、一人の人間を半分にすると、0.5人が二つできるのではなくて、一人の人間が死んでゼロ人の人間が残るだけだからだ。
序数と基数とを区別することは、とても大切だ。その区別をすることで、量子力学についても、新たな理解をなすことができる。実際、そのことで、量子力学について、まったく新しい理論を構築することができる。( → 二重スリットの理論 )
そして、その区別をなす発想を、区体論は与える。集合論にはない発想を、区体論は新たに示す。かくて、区体論は、世界に対する認識について、新たな認識を示す。
「役立つか」どうかが大事なのではない。「世界をどう理解するか」ということが大事なのだ。「数がどう扱われるか」ということだけが大事なのではない。「数が世界についてどういう意味をもつか」ということが大事なのだ。── そして、その根源には、「数の集まりを数える」という発想のかわりに、「物の集まりを数える」という発想がある。
かくて、「パラダイムの転換」は、世界に対する新しい認識をもたらす。(つまり、1,2,3……という数そのものは同じだとしても、数がこの世界において何を意味するかという件で、まったく新たな認識をもたらす。)
付録として、蛇足ふうの話を、書き加えておこう。
前にも述べたが、区体論について、こういう疑問がある。
「区体論は、役に立つか?」
前に述べたときは、疑問について説明した。ここで、簡単に解答を言えば、こうなる。
「その質問自体が無意味である」
そうだ。「区体論は役に立つか?」と質問するのは、その質問自体が無意味である。なぜか? 区体論による数学は、まだ未完成であるからだ。子供のように。
子供が成長して、どんな大人になるかは、子供が大人になるまでは、わからない。区体論による数学が発展して、どんな体系になるかは、その体系が発展するまでは、わからない。
なのに、「区体論はいまだ役立つことが証明されていないから、区体論を研究するのは馬鹿らしい」と結論する人がいる。しかし、その論旨は、「区体論は未完成だから、区体論を完成させるのは無意味だ」というのと同じである。これでは話が堂々めぐりしている。(本人は気づいていないのだろうが、こういう堂々めぐりは非論理的だ。)
類比的に言おう。この馬鹿らしさは、次のような堂々めぐりと同様だ。
「集合論が生まれる前には、集合論が役立つとはわからなかった。ゆえに、集合論を提出するための研究するのは無意味である」
「微積分が生まれる前には、微積分が役立つとはわからなかった。ゆえに、微積分を提出するための研究するのは無意味である」
「相対論が生まれる前には、相対論が役立つとはわからなかった。ゆえに、相対論を提出するための研究するのは無意味である」
こうして、あらゆる新理論が否定されてしまう。なぜなら、新理論が登場する前には、新理論が役に立つとは判明していないからだ。また、新理論が提出されたばかりの時点では、新理論はまだ赤ん坊にすぎないからだ。
というわけで、「区体論は役立つか?」と問うのは、無意味である。区体論による数学は、現時点では未完成である。いまだ赤ん坊のように。これが今後、どういうふうに成長していくかは、実際にそれが成長するまではわからない。
「区体論は役立つか?」という質問には、「まだ判明していない」と答えるしかない。
また、「区体論は役立つと証明されていないから、区体論を研究するのは無意味だ」という主張には、「それでは話が堂々めぐりしている」と答えるしかない。つまり、「誕生した時点で完成されていないものは、誕生する資格がない」というような主張は、あまりにも非論理・非科学的であり、その主張自体が自己矛盾しているのだ。
区体論について、こういう質問がある。
「区体論は、正しいか?」
しかし、この質問は、無意味である。そのことは、すでに述べたことから、わかるはずだ。なぜなら、数学的に意味があるのは、「正しいか/正しくないか」というようなことではなくて、
「その体系は、無矛盾か?」
ということだけであるからだ。ここでは、「正しいか/正しくないか」ということを質問しても、質問自体が無意味である。もちろん、矛盾した体系ならば、「正しくない」と切って捨てることは可能だ。しかし、無矛盾である(あるいは矛盾性が証明されがたい)体系であれば、あとは単に研究すればいいだけであって、「正しいか?」なんてことを尋ねる必要はないのだ。ちなみに、次の質問を考えるといい。
「集合論は正しいか?」
「実数論は正しいか?」
こういうのは、まったく意味がない。集合論も実数論も、無矛盾性さえ証明されていないが、だからといって、「これらの理論を捨ててしまえ」ということにはならない。……ただし、集合論も実数論も、一定の成果を出して、現実の世界で使われている。
そこで、「正しいか?」という質問のかわりに、「役立つか?」という質問も出る。しかし、質問そのものは、まったく数学的でない。それは実用性の問題であって、数学の問題ではない。
これを理解するには、高度な抽象数学を考えるといい。それが何の役に立つかもろくにわからないような高度な抽象数学が、数学の世界では広く研究されている。それが数学というものなのだ。たとえば、「超ヒモ理論」という量子力学の分野では、非常に高度な数学を用いて研究されているが、「超ヒモ理論」が現実をうまく説明するかどうかは、まったくわかっていない。それでも、最先端の研究者は、役立つかどうかもわからないまま、どんどん研究しているのだ。……それが最先端の学問のあり方だ。「役立ちますか?」なんていう質問は、「もうかりまっか?」という質問と同じで、あまりにも世俗的すぎて、非数学的なのだ。
では、「役立つか?」という質問のかわりに、どういう質問を出せばいいか? それは、次の三つの質問だ。
「その体系は、無矛盾か?」
「その体系は、意味のある結論を出せるか?」
「その体系は、美しいか?」
1番目(無矛盾性)は、前出の通り。これは大切だ。ただし、集合論は、無矛盾性が判明していない。一方、区体論は、(自然数論を含まない範囲の公理8タイプでは)無矛盾である。
2番目(意味のある結論)は、すでに示したとおり。すなわち、自然数論も実数論も構築できる。その意味で、集合論とほぼ同等の成果をもたらす。(無限小実数論については、集合論をしのぐ。)……つまり、決して無意味な体系ではない。
3番目(美しさ)は、明らかに美しい。集合論のように変な体系(複雑な公理から単純な定理を生み出す体系)とは異なる。……特に、ここで示される公理が、ブール代数(など)の公理とよく似た形であることに注意するといいだろう。
というわけで、この三つのことから、区体論は集合論以上に、「まともな理論」としての資格を有するのだ。そして、このことは、出発点を与える。この出発点から、最終的に何が得られるかは、現時点ではまだわかっていない。たとえば、コペルニクスやガリレオが「地動説」を唱えたとき、彼らは「人類の宇宙旅行」とか「ブラックホール」とか「ビッグバン」とかいうようなことは、およそ想像してもいなかっただろう。区体論も、同様である。そこから何が生まれるかは、今のところ、よくわかっていない。
われわれにとって大切なのは、「区体論という真実を得たから、真実をすべて知り尽くした」と自惚れることではなくて、「区体論という真実を得たから、この先の道の広い領域に進む資格を得た」とだけ理解して、「この先の広い領域については、まだ何も知っていない」と謙虚に非力さをわきまえることだ。
【 注記 】
もう少し説明しよう。集合論と比較した上で、
「区体論は役に立たない」「区体論は弱い」
というふうに批判する人がいる。しかしそれはまったくの勘違いだ。
区体論は、「役に立とう」「強くしよう」という方向を狙ったものではない。逆に、「役に立たないようにしよう」「弱くしよう」という方向を狙ったものだからだ。
なぜか? それは、「数学基礎論とは何か?」というものを考えれば、自明であろう。
通常の数学は、「少しでもたくさんの定理を生み出そう」とする。その意味では、たくさんの定理を生み出せる理論ほど有益だ。しかし数学基礎論は、そういう方向を狙わない。数学基礎論が狙うのは、「無矛盾性」である。そして、無矛盾性を狙うときに、最終的な目標となるものは、「矛盾を含まずに最大化された体系」ではなくて、「数学を構築できるだけの必要部分を備えた最小セット」なのである。
たとえば、「バナッハ=タルスキーのパラドックス」というものがある。これはあまりにも不自然であるがゆえに、パラドックスと呼ばれる。しかしこれは選択公理から得られる定理である。とすれば、選択公理そのものが強すぎることを意味する。
とすれば、不自然な結論を生み出さない範囲で、合理的な体系を導入したい。しかも、その体系は、無矛盾であるべきだ。
この点からすると、通常の数学は、あまりにも強すぎる。強すぎるので、それが無矛盾であるかどうかもわからない。「バナッハ=タルスキーのパラドックス」の意味することは、もしかしたら矛盾であるかもしれない。なぜならば、ここから、次のことが得られる(かもしれない)からだ。
1=2
これは明らかに代数的な矛盾だ。そして、集合論からは、こういう結論が出てもおかしくない。その意味で、集合論は無矛盾性のはっきりしない、あやふやな体系なのである。その理由は、あまりにも強すぎる(実り豊かすぎる)からだ。
そこで、まったく逆の立場(数学基礎論の立場)から、無矛盾性を追求しようという方針の公理系が提出された。それが区体論だ。
区体論は、集合論と比べて、次の特徴を持つ。
・ 体系が無矛盾である。(濃度の公理を含まない限りは。)
・ 「バナッハ=タルスキーのパラドックス」は生じない。
後者は、次のことから言える。
「区体論から得られるのは、選択公理ではない。公理8によって取ることができるのは、可算までの濃度だけである。そこで選択できるのは、可算濃度の選択だけであるから、可算選択公理しか成立しない」
「公理9を使えば、連続濃度の無限小を取ることができるが、そこで取ることができるのは、無限小であって、アトムではない」
この件は、詳しくは下記を参照。
→ 「補足解説編」の「追記」
実は、この箇所でも、「区体論は役立つか」という議論をしている。いろいろと読むといいだろう。
ともあれ、区体論は、「役に立つこと」や「強いこと」をめざす一般数学とは違って、「無矛盾であること」や「確実に真実であること」をめざしているのだ。めざす方向が違うのだから、「区体論は役に立たない」という批判は、まったくマトはずれだとわかるだろう。それはいわば、「塩はちっとも甘くない」という批判と同様だ。根本的に見当違いな批判なのである。
区体論について、次の批判がある。
「区体論はトンデモだ」
実際、こういう批判は、世間にあふれている。しかしそれらの批判は、たいていは無意味である。なぜか? 彼らは、まるで自分が数学の話をしているように思い込んでいるが、実は、文学の話をしているにすぎないからだ。
数学の話をするのならば、具体的に数式ないし論理式を使って、命題の論旨について語るべきだろう。たとえ数式や論理式を省略するにしても、話の内容そのものは、数式や論理式の解釈であるべきだろう。それならば、数学的な話となる。
しかしながら、上記のような批判は、いずれも「トンデモだ」というふうに、文学的に語るだけだ。それは「悪口」という修辞の一種である。例えば、次のように。
「王様は悪魔だ」
「首相は詐欺師だ」
「大統領の頭は虫ケラ並みだ」
こういう悪口は、具体的に政策などを論じるのではなくて、単に頭ごなしに修辞を述べているだけだ。そして、
「区体論はトンデモだ」
という批判もまた、同じく、ただの文学的な修辞にすぎない。なぜなら、そこには、論理的な主張は、ただのひとかけらさえもないからだ。
なお、自分では「論理的な批判をしている」と思い込んでいる人もいる。しかし、たいていが、勘違いに基づく批判にすぎない。なぜか? 彼らはたいてい、次のように誤解しているからだ。
「区体論は集合論を否定している」
しかし、そんなことはない。区体論は集合論を否定しない。この件は、何度も述べたとおり。(「補足解説編」でも述べたとおり。)
なのに、勝手に誤解して、「集合論(による数学の構築)を、区体論は否定している」と思い込んでいる人たちが、「トンデモだ」と騒ぐわけだ。
では、正しくは? 区体論は、次のように主張する。
「数学を構築するためには、集合論による方法の他に、区体論による方法がある」
つまり、「目的(数学の構築)に至るには、別の道がある」と示しているわけだ。another way があるぞ、と示しているわけだ。
ここで、区体論の主張を否定するのであれば、「別の道などはない」と示すべきだろう。しかるに、少なくとも仮表示形の区体論を見る限りは、(ペアノ公理と組み合わせて)自然数の構築ができる、と、ただちにわかる。でもって、「別の道などはない」つまり「その道は行き止まりだ」と示すかわりに、「そんなことをしても無意味だ」と主張する。
しかし、その主張は、もはや区体論の批判にはなっていないのだ。「区体論は役立たずだ」という批判は、それ自体のうちに、「区体論は理論として成立する」ということを含意している。だとすれば、その批判は、区体論への批判(トンデモだという批判)にはなっていない。かわりに、「区体論はたいして役立たない」という、価値判断をしているだけだ。
ここでは、「役立たない」という価値判断と、「トンデモだ」(数学理論として成立しない)という真偽判断とが、混同されている。頭が混線しているのだ。この批判は、たとえれば、次の混同に似ている。
「この料理は、食べられない」
「この料理は、美味しくない」
料理が食べられるか食べられないかは、有毒であるかどうかで決まる。(腐った料理は有毒なので食べられない。)一方、料理が美味しいか不味いかは、食べられるか食べられないかとは、別の話だ。それはただの価値判断にすぎない。どんなに不味くても、食べられるものはある。また、誰かが不味いと判断しても、別の人は美味しいと判断するかもしれない。
区体論も同様だ。「区体論は美味しくない」と判断することは、人の勝ってである。ただし、それは、「区体論は食べられない」ということとは、まったく別のことである。つまり、「区体論が役立つか役立たないか」ということは、「区体論は数学的理論として成立するか成立しないか」ということとは、まったく別のことである。
世の中のたいていの批判は、この混同から生じている。頭が混線しているのだ。
ともあれ、もう一度繰り返しておこう。肝心のことは、こうだ。
「区体論は、集合論による数学を、否定しない。別の道があることをを示すだけだ」
なのに、このことを勘違いして、「既存の道を否定している」と勘違いしたあげく、「区体論はトンデモだ」と批判する誤解が多すぎる。注意しよう。
たとえば、「区体論では測度を扱えない」という批判がある。この批判の命題は正しくはないのだが、仮に、この命題が正しいと仮定しよう。── つまり、「区体論では測度を扱えない」と仮定しよう。その場合、区体論はトンデモだということになるか? いや、ならない。なぜなら、区体論によって構築される数学は、集合論によって構築される数学とは、もともと違うからだ。当然、両者は、完全に一致するわけではない。両者は、自然数や実数の範囲では、おおまかには一致するが、あらゆる件について完全に一致するわけではない。両者の原理には差があるのだから、両者の結論にも差があるだろう。一方にできることが他方にはできないということもあるだろう。── つまり、区体論が測度を扱えないとしても、それは「区体論がトンデモだ」ということを意味しない。それは、「区体論の数学は、集合論の数学とは、違う」ということを意味するだけだ。だから、「区体論では測度を扱えないから、区体論はトンデモだ」という批判は、根源的に錯誤をおかしているのだ。その批判は、「区体論と集合論とは、違う原理に立ち、違う結論を出す、別の理論だ」ということを、まったく理解していない。
で、両者に違いがあるとしたら、どうなのか? どちらかが正しく、どちらかが間違っているのか? そんなことはない。単に「別の理論がある」というだけのことだ。だから、似て非なる理論に対して、ごくわずかな差が見出されるということは、当然、あるべくして、あることなのだ。── そして、そういうわずかな差が見出されたとしたら、そのとき、「その差こそが数学的な興味の対象となる」と思うべきだろう。そう思うのが、数学的なセンスだ。
「集合論にできることが区体論にできないとしたら、それは、なぜなのか? また、その問題を克服するには、区体論(による数学)は、どのように拡張されるべきか?」
こういうことを考察しようとするのが、数学的なセンスのある態度だ。一方、「だからトンデモだ」なんて批判するのは、ただの放棄主義にすぎない。
数学の歴史では、さまざまな拡張の歴史があった。正の数から、正と負の数へ。有理数から、無理数へ。……これらの拡張の歴史では、次のような放棄主義は取られなかった。
「正の数だけを扱う理論は、負の数を扱えない。だから、正の数を扱う理論は、トンデモだ。正の数の算術は、トンデモだ。自然数の算術など、捨ててしまえ」
「有理数だけを扱う理論は、無理数の数を扱えない。だから、有理数を扱う理論は、トンデモだ。有理数の算術は、トンデモだ。有理数の算術など、捨ててしまえ」
こういう放棄主義は取られなかった。かわりに、「困難を解決するために理論を発展させる」という方針が取られた。この方針は、「未知の領域に進む」という開拓主義である。放棄主義のかわりに、開拓主義が取られた。そのことで、数学は進歩していったのだ。
集合論の歴史も同様だ。例えば、集合論の構築の過程では、次のような放棄主義は取られなかった。
「ラッセルのパラドックスが生じるから、集合論はトンデモだ」
「カントールのパラドックスが生じるから、集合論はトンデモだ」
「初期の集合論は、まだ数学を構築することができなかったから、初期の集合論はトンデモだ」
こういう放棄主義は取られなかった。もし、こういう放棄主義が取られていたら、今日の集合論は形成されなかっただろう。
集合論の歴史では、放棄主義のかわりに、開拓主義が取られた。初期の時点では、測度どころか、実数さえも構築することができなかった。それでも、カントールたちは、開拓主義を取って、それまでの数学の道とは別の道となるような、新たな道を取ったのだ。
新しい理論が提出されたときは、常に、すでにある道とは異なるような、別の道を取る。ここで、「新たな道は、すでにある道と違うから、トンデモだ」というような発想をする限り、未知の領域を開拓することは、決してできないのだ。
なお、どうしても「トンデモだ」というふうに批判したのであれば、むしろ、集合論における次の難点を、しっかり考察した方がいい。
集合論には、主なものだけでも、二つの難点がある。(論理的な矛盾というわけではないが。)……この二つを、本項と次項で示そう。
「集合論では、濃度に上限がない」
集合論では、「べき集合公理」によって、いくらでも高い濃度が生じる。ゆえに、濃度に上限がない。いわば「天井なし」である。
しかるに、現実の世界(われわれの住んでいる宇宙)では、濃度は「連続」(実数濃度)までである。
とすれば、両者には、食い違いが生じる。すなわち、集合論は、われわれの宇宙を描写する数学としては、不適切である。── そういう難点がある。
この件は、すでに別の箇所でも述べたとおり。ただし、この指摘に対して、次のような弁解がなされることもある。
「われわれの宇宙は、本当は、「連続」(実数濃度)よりも高い濃度であるのかもしれない。たとえば、現代物理学の超ヒモ理論では、空間の次元が11次元であることも想定されている。とすれば、それと同様に、見えない濃度がこの世界に存在するのかもしれない。」
しかし、この弁解は、無意味である。次の理由によって。
(1)
次元ならば、4次元目や5次元目が「縮退している」というふうに考えることもできるが、濃度については「縮退している」というふうに考えることはできない。わかりやすく言えば、「自然数のなかに実数は入りきらない」と言える。つまり、実数は、自然数という容器からは、あふれてしまうのだ。これは根源的な問題だ。
(2)
超ヒモ理論では、次元は11次元であって、次元は無限ではない。しかるに、べき集合公理では、「可算濃度の一つ上」、「そのまた一つ上」、「そのまた一つ上」、……というふうに、際限なく「無限のレベル」が上がっていく。これが「天井なし」とういうことだ。つまり、ここでは、「無限のレベルが11で止まる」ということはない。それゆえ、 (1) の問題は、いっそう大きくなる。
(3)
さらに核心を言おう。上記の弁解が正しいと仮定しよう。つまり、
「現実の世界には、天井なしの無限の濃度がひそんでおり、われわれは単にそれに気づかないでいるだけだ」
というふうに言えるとしよう。それはそれでいい。しかし、だからといって、どうして、別の主張を否定する必要があるのか?
「現実の世界には、天井なしの無限の濃度はひそんでいない。有限と可算と連続という三種類の濃度だけがあり、それ以外の濃度は特に必要ない。」
というふうに主張する理論体系を、どうして否定する必要があるのか? 「そういう理論もあるのなら、それも考察してみよう」と思うのが、自然な態度であろう。現実を描写するのに適した理論(区体論)を「トンデモだ」と悪口で批判し、現実を描写するのに適さない理論(集合論)を「無謬の絶対的真実だ」と主張するのでは、それは、もはや、科学ではなくて、ただの神学論になっている。── それはちょうど、地動説を批判する天動説にそっくりだ。
「地動説がいくら現実をうまく描写する理論だとしても、地動説はトンデモだ。なぜなら、天動説は無謬であるのに、地動説はそれを批判するからだ」
「区体論がいくら現実をうまく描写する理論だとしても、区体論はトンデモだ。なぜなら、集合論は無謬であるのに、区体論はそれを批判するからだ」
ここではもはや、科学論議ではなくて、神学論議になってしまっている。だからこそ、「区体論はトンデモだ」と批判する人々は、数式や論理式でなく、ただの文学的な悪口で「トンデモだ」と言うことしかできないのだ。
集合論には、より根源的な難点がある。それは、こうだ。
「集合論による数学では、実数を決定することができない」
まず、カントールは対角線論法で、次の意味のことを示した。
「実数は自然数よりも圧倒的にたくさん存在する」
これはそれでいい。
一方、次のことが言える。
「集合論による数学では、実数を決定することができない」
なぜか? 集合論の方法では、実数を「有理数による数列の極限値」という形で決定する。この場合、有理数の数は可算個である。また、有限個の文字を組み合わせて作れる数列の種類もたかだか可算個である。とすれば、実数を決定する有理数の種類は、たかだか可算個でしかない。つまり、ほとんどすべての実数は、決定することができない。
以上の二つから、こう言える。
「実数のほとんどは、存在することは言えるが、決定することはできない」
なお、この件については、「専門解説編」でも、同趣旨のことを述べた。
さて。本項では、さらに重要なことを指摘しておこう。
実数のほとんどは、単に「決定できない」だけではない。実数は、「決定すること」と「存在させること」とが、ほとんど同等であるはずだ。そのことは、コーシー列による実数の決定の仕方を考えるとわかるだろう。
しかし、それだとおかしなことになる。コーシー列による決定だと、可算個までしか決定できないが、そのせいで、可算個までしか存在性を示せないからだ。
根源的に考えてみよう。ほとんどの実数について、
「存在することはわかるが、決定することはできない」
のだとすれば、ほとんどの実数について、「有理数を使わないで、存在性を言える」ことが必要だ。しかし、そんなことができるのか?
まず、集合論ではどうか? カントールの対角線論法では、天下り的に小数を導入して、
0.b1b2b3b4b5……
のように書いた。しかし、こういうふうに天下り的に小数を導入していいという保証はない。なぜなら、それぞれの小数について、各桁を決定できるとは言えないからだ。
だから、実数の存在性を言うには、
「有理数を使わない形で、実数の存在性を示す」
ことが必要だ。ところが、コーシー列を使う方法では、そうなっていない。有理数を使うことで、実数を決めているので、「有理数なしに実数の存在を示すこと」はできていない。
一方、区体論では、どうか?
区体論では、準関数を使って、2分割する。ここでは、準関数を使うのだから、「存在性を示すが、決定はできない」というふうになる。
逆に言えば、「存在性を示すが、決定はできない」ということが、(有理数のかわりに)準関数を使うことで、うまく成立している。これなら、問題ない。
以上のことをまとめれば、実数の存在について、こう言える。
「実数というものは、少数の例外(有理数)を除くと、『存在性は言えるが、決定はできない』ようなものだ。そのことは、区体論では、当然のこととして、ごく自然に結論される」
「一方、集合論では、有理数から実数を構築するという方法を取る。そのせいで、存在性と決定性との双方が、有理数の責任に負わされる。だが、有理数で示せるのは(存在性も決定性も)有理数の範囲でだけだ。そのせいで、『存在性は言えるが、決定はできない』ということが、うまく説明できなくなってしまう」
ここには、集合論に基づく実数論に、難点がある。その難点は、数学的な矛盾というわけではないのだが、根源的に不自然なものだ。そして、その不自然さを、区体論は解消する。
【 追記 】
上記のことからわかるように、集合論による実数論には、大きな難点がある。それは、「実数全体の存在を示せないから、(公理的に)解析学を構築できない」ということだ。
実数全体を天下り的に前提すれば(小数の形で存在性を天下り的に導入すれば)、解析学を構築することはできる。しかし、公理的に言うなら、そのような天下り的な方法はできない。とすれば、実数全体の存在性を言えないから、実数全体の上に成り立つ解析学を構築できない。
たとえば、実数を
{ x|x はコーシー列で決定される数 }
というふうに定義したとしよう。この定義による実数全体は、たかだか可算個でしかない。したがって、解析学が成立するために必要な連続性を満たすことができない。
解析学では、実数を個別に決定する必要はないが、存在性を示すことは必要だ。なのに、集合論を使う限りは、それが不可能なのだ。集合論では、可算個までの存在性は言えるが、連続濃度までの存在性は言えないからだ。
こうして、次のことが結論される。
「解析学を公理的に構築することは、集合論では不可能だが、区体論では可能である」
これは重要な結論だ。数学というものを公理的に構築しようとするなら、区体論によるしかないのだ。
( ※ 現状では、天下り的な方法で実数全体を導入しているが、これは公理的な方法ではない。)
【 注記 】
なお、「できない、できない」と述べたが、まったくできない(手も足も出ない)わけではない。次のことは可能だ。
「可算無限(自然数)の集合を導入したあとで、それに対して、べき集合公理を適用することで、連続濃度の集合の存在を言う」
このことは「べき集合公理」から可能である。つまり、「連続濃度」の集合の存在ならば言える。ただし、そういう濃度の集合が存在することは言えるが、それが実数であることはまだ言えない。言えるのは、「実数の濃度をもつ集合が存在すること」だけだ。その集合は、実数と同じ濃度をもつが、実数そのものである保証はない。
たとえば、「無理数全体」がそうだ。無理数全体は、実数全体から有理数を除いたものだから、実数と同じ濃度である。だが、無理数全体は実数ではない。無理数全体を実数と見なすことはできない。
こういうわけで、「実数の濃度をもつ集合が存在すること」を言えても、「実数の存在」を言えたことにはならないのだ。
わかりやすく説明するために、「実数とはどのようなものか」ということを、イメージ的に説明しよう。
(1) 集合論の実数
集合論の実数は、有理数の数列の極限値として与えられる。(コーシー列。)
その意味は、「点の収束するところ」である。実数直線状に、点を取る。その点は、数列が少しずつ進むにつれて、ある一点に収束する。その収束先が実数だ。
ここで、点は、有理数としての値を取る。しかしながら、収束先は、実数の値を取る。前者の濃度よりも、後者の濃度の方が、圧倒的に大きい。
では、なぜそうなのか? そのわけは、「収束先を決める手順が無限(可算)であるから」である。簡単に言えば、 2n という数を取って、指数の n を無限(可算)にする。2という数は自然数(有理数)であるが、その指数が無限(可算)になれば、 2n は連続となる。それと同様だ。有理数自体は可算でしかないが、有理数を決める手順もまた可算になると、その全体は連続になる。……というわけで、有理数の数列を無限の手順で収束させるときの収束先は、連続となる。
イメージ的に言おう。実数直線の上で、個々の点を取る。それらの点は、有理数として決まる。そして、これらの点の収束先によって、実数直線を埋めていく。点によって直線を埋めていく。ただし、実際に埋めることができるのは、実際に手順を定めることのできる場合のみである。「行きつくことのできるはずのところ」の濃度は連続だが、「実際に行きつけるところ」の濃度は可算である。
( ※ この意味で、[個々の]実数の存在性は、まだ証明されていない。おおざっぱな「実数全体」の存在性はすでに証明されているが。)
(2) 区体論の実数
集合論では、「点によって直線を埋める」という方法を取った。つまり、「小さなものから大きなものを構築する」という方法を取った。一方、区体論では、その逆である。「大きなものから小さなものを決める」という方法を取る。つまり、「直線を分割して無限小を決める」という方法を取る。
この場合、全体の存在も、無限小の存在も、ともに最初から導入されている。したがって、「実数の存在性」は、自然に証明される。(特に面倒な手続きは必要ない。実数を構築した時点で、自然に存在性も示せることになる。)
( ※ このことは「上から構築する」という方法による。集合論では「下から構築する」という方法を取ったから、実数の存在性が話題になる。比喩的に言おう。地球の全体を取って、それを半分ずつの領域で区分けしていけば、最後には地球を「たくさんの断片領域の総和」として表示できる。当り前だ。これは「上から」の方法を取ったからだ。…… 一方、最初に断片領域をいくつか取って、その断片領域を増殖させるという方法でも、地球の全体を覆えるだろうが、確実に地球全体を覆い尽くせるという保証はない。これは、「下から」の方法を取ったからだ。)
集合論を信じるのはいい。しかし、だからといって、それだけをやみくもに信奉して、他のすべての理論を否定するようでは、視野が狭くなる。「既存の理論とは別の理論もあるのだ」というふうに、視野を広げるべきだろう。ちょうど、「天動説の他に、地動説もある」ということを理解するように。
天動説の信者は、地動説をこう批判した。
「地動説はトンデモだ。なぜなら、神の無謬性を批判するからだ」
しかし、それは誤解である。地動説は、別に、神の無謬性を批判したわけではない。単に、真実を理解するために、新たな学説を出しただけだ。
集合論の信者は、区体論をこう批判する。
「区体論はトンデモだ。なぜなら、数学の無謬性を批判するからだ」
しかし、それは誤解である。区体論は、別に、数学の無謬性を批判したわけではない。単に、真実を理解するために、新たな学説を出しただけだ。another way を示しただけだ。
分配法則の位置づけについて、新たに考察したことがあるので、後日( 2010-08-03 )になって、加筆しておく。
先に述べたように、分配法則については、次のように記述した。
・ 区体論においては、分配法則は、特に要請されない。あってもなくてもいい。
・ 包含の理論としてならば、分配法則は必要である。
・ 区体論に分配法則を組み込むには、公理 10 を用いる。
ここまでは結論だ。ただし、こうして眺めると、あまりエレガントでない。
包含の理論としてなら、分配法則を定理として導き出せるべきだ。しかしそれが公理 10 という(公理1〜8以外の)別のところから得られるのでは、エレガントではない。
かといって、ブール代数みたいに、分配法則そのものを公理として含むのは、もっとエレガントでない。定理として導き出せるものを公理として含むのは、全然エレガントでない。
この問題には、頭を悩ませていた。そこで、発想を改めて、次のことを考えた。
「分配法則を満たさない体系とは何か?」
そもそも、区体論(公理 1〜8 )には、分配法則がなくてもいい。では、分配法則のない体系とは、どのようなものか? それを考えてみるために、具体的なモデルを考えたい。
そのモデルは、包含のモデルよりも、さらに拡張されたモデルである。それは、どんなものか?
ちょっと考えたところでは、 min,max のモデルが考えられるが、これは分配法則を示すモデルと同じになるから、あまり意味がない。そこで、これはモデルとしては却下する。
もっといいモデルはないか? ある。たとえば、ベン図(包含関係を示す図)よりも、もっと拡張されたモデルが考えられる。それは、3次元のベン図みたいなものだ。それは、地中の鉱物の分布を示すような3次元の空間分布を示すものだ。これを、水平状に輪切りすると、ベン図になる。
しかし、これは、モデルとしてはわかりにくい。そこで、3次元方向のかわりに、時間軸方向の変化を考える。すると、次のようになる。
「ベン図の位相関係はそのままで、領域の大小が時間的に変化する」
つまり、ベン図の図形が、アメーバみたいに、時間のなかで変化するわけだ。こうなると、min や max を取ったときの時間が、(分配法則の)左辺と右辺とで、異なる時間になることもあるので、(分配法則の)左辺と右辺が一致しないこともある。
そして、分配法則が成立するための条件は、「時間的な変化がないこと」となる。
以上のように考えてみると、分配法則は、やはり、数学的には重要性はあまり高くないようだ。「包含関係」を示すためには、分配法則は必要だが、「自然数の構成」のためには、分配法則は別に必要ない。
そして、このことは、次の重要な結論をもたらす。
「数学の基礎を構築するのは、包含の理論ではない」
集合論を採用しているときには、集合論は包含の理論であることから、包含の理論が数学の基礎になると思われてきた。しかし、そうではないのだ。
数学の基礎と、包含の理論とには、共通する部分がある。それは「公理1〜7」である。ここには、分配法則は含まれない。
「公理1〜7」は、数学の世界の「核」と言えよう。
この「核」に対して、「公理8」と「分配法則」を加えると、「包含の理論」となる。
この「核」に対して、「公理8」と「ペアノ公理」を加えると、「自然数の理論」となる。
・ 包含の理論 = 核 + 公理8 + 分配法則
・ 自然数論 = 核 + 公理8 + ペアノ公理
数学において本当に大切なのは、「核」だけなのだ。公理8はともかくとして、分配法則やペアノ公理は、そのあとで追加される公理にすぎない。それぞれが追加されることで、「包含の理論」や「自然数論」になる。……これが数学における本当の姿なのだ。
集合論ふうに発想すれば、次のようになるだろう。
「核と、公理8と、分配法則と、ペアノ公理。これらをすべて含む理論があれば、それは最も強力だし、すべてを証明できる」
しかし、最も強力な理論を得ることが目的なのではない。数学の世界の真実を知ることが目的なのだ。そのためには、「何ででも含んだ巨大な理論が一つあればいい」ということにはならない。むしろ、「ある目的のために必要最小限のものは何かを知りたい」というふうになる。なぜなら、それが真実を知るということだからだ。
区体論の目的は、さまざまな概念を含む最強の理論を得ることではない。数学の真実を知ることだ。
そして、ここにおいて、われわれは一つの真実を知ることができた。
「数学の基礎を構築するために、包含の理論は、必要ない。特に、(包含の性質を示すための)分配法則は、必要ない。分配法則を除いた、核の部分だけが必要なのだ」
と。
[ 付記 ]
分配法則の成立しないモデルとして、上記のようなモデルを提出したが、これはあまり良いモデルではない。そこで、もっと良いモデルを出す。
分配法則の成立しないモデルとして、次のモデルがある。
「それぞれのアトム( or 無限小)が、たがいに区別されない。準関数のもとで、握っている限りは区別されるが、握っているのをほどくと区別されなくなる」
要するに、量子論の世界の量子(電子や陽子や中間子)のようなモデルだ。
このようなモデルでは、アトムはたがいに区別されない。すると、分配法則の左辺と右辺とを比較するとき、「いったん握っていたものをほどく」という操作が加わるので、そのときに、たがいに混じりあってしまう。このなると、右辺と左辺との同等性が言えなくなる。
しかしながら、そのようなモデルにおいても、数を数えることは可能だ。数の数え方は、準関数の操作法に従う。そうすれば、少なくとも基数については、数を数えることが可能だ。( 手 の数を 1,2,3…… と増やしていける。)
このことは、可算濃度では可能だ。連続濃度でも、たぶん、可能だろう。
ただし、注意。このことで提出される数は、基数だけだ。序数は提出されない。序数が提出されるとしたら、一つ一つのアトムに名前が付けられることになるが、そうなると、「たがいに区別されない」という前提に反する。
以上をまとめると、次のように言える。
「分配法則が成立しなくても、有限濃度や可算濃度や連続濃度を構築できる。そのことで、数学の基礎を構築できる」
「しかしながら、そこでは、序数を構築できない。序数を構築するには、分配法則が必要だ」
「一般の数学には、序数が必要だから、そこでは分配法則はもちろん必要である」
つまり、数学の基礎中の基礎(濃度の構築)には、分配法則は不要なのだが、一般の数学を構築するためには、分配法則は必要となる。
分配法則の位置づけは、以上のようになる。